使命者について、指導者も気を付けないといけないけれど、受ける側も気を付けないといけないな~と思うことがあります。特に日本では。
使命を受けた人に対して、指導者が上からああだこうだと言い過ぎるのは本当に良くない事だと思います。人材育成のチャンスを逃すことになりますから。
ただ、使命を受けた人も、人に言われたからと言って、はい、そうですか、と言いなりになるのも良くないと思うんですよね。
今まで使命者なのにすぐに人の言いなりになってしまう人を見て残念に思うことがたくさんありました。
気持ちは分かりますよ。神様が指導者を通して働かれたのかも、と思ってしまったり、単純に、自信がないから自分より人の言うことの方が正しいんじゃないかと思ってしまったり。。
場合によっては譲ってしまうこともあります。
でも、基本的に使命者は譲ってはいけないし、誰かに頼ってもいけないのです!
神様は使命者に働かれるからです。
謙虚にしないと、という考えが行き過ぎると何でも「自分は引っ込むべき」という極端な態度になってしまいます。何事も度が過ぎてはいけません。
協力を要請するのは良いんですよ。でも、完全に誰かに頼りきってしまったり全面的に譲ってしまうのは良くありません。
私の考えですが、使命を果たす時は基本的に『○○さんに言われたからこうやった』という言葉は禁句にしないといけないと思います。
使命以外ならあり得ますよ。でも自分の使命に関しては人の言うことを聞いてやるものじゃないです。同じ使命の先輩に相談しながらやるのは有りですが、基本的には自分で研究して祈ってやるものだと思います。
いつまでも『○○さんに言われたから』だと結局言われたことしかできなくなってしまうし、自分で責任も負わないので失敗しても○○さんのせいにできるから、成長できません。
使命を行う根拠は人の言葉ではなく、御言葉や祈って受けた霊感や自分の研究の結果が基本だと思います。
また逆に、そのセンターの使命者は大いに立てて使うべきです。「使う」という単語が日本語では人に対してはあまり使わないので語弊が生じるかもしれませんが、先生は「使命者を使わなければいけない」とおっしゃいました。
ですから、自分の使命の位置で立ててほしいなら、他の使命者を立てて使ってあげないといけない、とも言えます。
そうした方がお互いに良い結果が出ます。
手は手の役割、足は足の役割に徹した方が良い、という事です。足がやるべきことを手がやろうとしたら大変なのでそれは足に任せ、手がやるべきことなら手が率先してやるべきだ、という事です。
自信がないのは自分、でも使命をくださったのは神様です。自信がないという理由で譲ってしまうのは神様の顔に泥を塗ることになります。
使命は自分に自信があるかないかは関係ないんです。神様に任されたからやるしかないのです。あのモーセでさえ最初は自信がなくてあれこれ神様に交渉していましたが結局はやることになりました。
使命はそれを通して主の心を感じたり御言葉を実感したりする恵みが大きいのです。私も使命をもらってから、より信仰が固くなりました。
使命は恵みだし祝福です。だから自分が率先してやることで、神様も喜ばれるし自分の成長にもなります!使命を自ら張り切ってやる信仰者になりたいですね。