ここ数日、人が相手に対して悪感情をもつ時ってどういう時かな?という事を考えてました。
様々な場合があるとは思いますが、大きな要因の一つは「自分が邪険に扱われたと感じるとき」じゃないかと思うんですね。
たとえば、自分が人知れず大事なことをやっていたのに何もしていない人のように扱われたとか、自分の事をたいして知らない相手から勝手な評価をされたとか、自分の知らない所で自分の事がいつの間にか決められていたとか。
でもそれをした相手は大抵の場合大して悪気ないんですよね。そっちの都合で良いようにしているだけだから。
だからこそ厄介なんです。悪気がないという事は悪いことをしているという自覚、相手を傷つけているという自覚がないという事じゃないですか?
日本人の悪いクセは、何も言わずに堪えることが美徳だと考えること。勿論、自分自身が次元を上げるための辛さだったら黙って耐えてやり抜かないといけません。でも外野から来る「心外な事」は黙っていたら多分ずっとそのままです。
なぜかというと、相手はこちらが「心外だ」と思ってることが分からないからです。
基本的に相手は「私の心の内は全く分からない」と考えた方が良いです。自分の心の内を分かるのは自分と神様だけ。だから自分が言わない限り誰も分かりません。
何も言わないと「納得した」と思われてます。
だからこそ、心の内でくすぶっている何かがあるならば、まずは主に告げて、できるなら責任分担として何かアクションを起こさないといけないのです。
ただただ黙って耐えながら奇跡としるしを待つというのは知恵じゃありません。主に告げた上で、祈りながら自分が出来る範囲でいいから何かした方が良いです。多分その方が近道です。神様もそれをご覧になっていますから。
もし、自分が動いたら身の危険があるというのならばそれも主に告げて委ねるしかありません。ただ、私達のような凡人にはそのような究極的な場面に遭遇することは稀だと思われます。
逆に、何かを決定する立場の人は、人間はゲームの駒じゃないんだから、悪気がないとはいえそちらの都合で適当に動かしてはいけないでしょう。駒はモノだけど人間には一人一人気持ちや思いというものがあるんですから。
気持ちを踏みにじられたと感じる時、人は反発心を起こしたり、逆にやる気をなくしたり、心が遠ざかってしまったりします。
こういう心情トラブルが起きないように、指導者は常にみんながどういう気持ちでどんなことをして走っているのかを把握しておく必要があるでしょう。
いくら御言葉が理想的でも、現実の世界では人間同士の努力が必要です。少なくとも、相手に関心を持って知ろうとすることが大事です。関心を持つことから愛が始まります。
結局は無関心から=愛がない所から悪感情が生じるのだと思います。
ただ口だけで『愛してま~す!』というのではなく、実質的な愛で満たしていきたいですね。