よく、「未来は変えられるけど過去は変えられない。」と言いますよね。
確かに、過去に起きた事実というのは変えられません。
だから、過去にあった嫌な出来事がなかったことにはできません。逆に良かったこともなくなりませんから安心ですけどね。(^^)
変えられるのは未来だけ。今どうするかで未来が変わる。
こういう事はよく聞きますし、誰でも納得がいく話です。
でも、私が最近思うに、過去の事実は変えられなくても、その出来事のイメージや意味を変えることはできるんじゃないのかな~と思うんですね。
嫌なことがあった後、それをどう利用して生きるかでその出来事に対する意味付けというのが変わって来るんじゃないかと思うのです。
良かった出来事も同じです。
極端な例を挙げると、例えば宝くじで一億円当たったとします。それ自体はとても幸運でほんの一握りの人だけが得られる特権階級のようなものです。そんな事が起こったらもう人生バラ色でしょう。
しかし、それで身を持ち崩してしまったら「一億円当たった」という良い出来事もその人の人生にとって悪い出来事に変わります。
出来事自体は良いものであっても、それをどうするかでその人にとっては悪い出来事に変わってしまうわけです。
逆も言えると思うのです。
嫌なこと、辛かったこと、悔しかったことがなかった人は恐らくいないでしょう。
それをずっと嫌な思い出として引きずって生きるのか、それをその後の人生に利用して良い方向に持って行くのかでその出来事の意味付けが変わっていくと思うのです。
私自身も数えきれないほどの嫌な思い出があります。人間ですから当然です。
牧会していた時も相当悔しいことがたくさんありました。
私が初任牧会をしたのは開拓教会で弱小でした。私自身もまだ幼くて、今思えばよくあんな段階でやっていたな~と思うほど。(笑)
しかも、牧会者としても下っ端だったので指導者会議に行くと公然と見くびられていました。
勿論、今はそんな非人格的なことはあり得ませんよ。でも昔はあったんですね。大きな声では言えませんが。ただ、そういう事をしていた人は今いません。だからこうして公表しています。
当時の大御所の言う事に私が納得いかない反応を示すたびに「弱小教会のくせに」とか「田舎のくせに」など散々言われました。それもみんなの前で。
だからすごく会議が苦痛だったけれど、同時に「今に見てろ!!絶対あの人の教会を追い抜いてやる!」と心に誓っていました。(我ながら恐いですね。。。)
その後の細かいことは省きますが、結果として、先生の巡回の時に私の牧会してた教会は「功績日本一」というサインを頂きました!そしてその人はいなくなりました。
当時見くびられた記憶は今も鮮明にありますし、思い起こしても良い出来事だったとは言えません。凄く悔しかったし、情けなかったし、私が何か悪いことでもしたの?と反論したくもなったし。
でも、あの時の悔しさがその後の功績につながったので、ただの「嫌な思い出」から「私を奮起させた出来事」という意味付けができるようになりました。
確かに世の中には、嫌な出来事、無念だったこと、悔しかったこと、悲しかったこと等々、それによって委縮して引っ込み続けて人生が終わってしまう人もいます。
そういう人は『あの時のあの事さえなければ。。』と一生悔しがるだけで終わってしまうでしょう。
私自身も、あの時ただ言われっぱなしで落ち込んで自信を失って引っ込んでいたら、その後の功績はなかったと思います。
でも、それじゃ自分の人生がもったいないと思いませんか?
でも、こればかりは誰かに慰めてもらうとかそういう事だけでは過去に対する意味付けを変えることはできません。自分が奮起するしかないのです。
悲劇のヒロインになるのか、たくましく這い上がっていくのか。
物語上では悲劇のヒロインって美しいですけど、実際はそんな人生は全然美しくないですよね。
神様は皆さんが前に進むための力を必ず与えて下さいます。それを素直に受け取って生かすかどうかは自分次第。
一瞬は落ち込む期間があったとしても、必ず前を向いて、嫌な過去も後のプラス要因にできる生き方をしていきたいですね。