信仰者なら誰でも「主の御心通りに生きたい!」「霊的に成長したい!」と思うでしょう。そのためにはみことば通りに生きることが大切です。
でも、もしかしたら、中には「自分は御言葉通りに生きてるのだけれど、なかなか成長しないな。。」とか「うまくいかないな」「あんまり変化してないな」と感じている方はいませんか?
今日はその原因の一つをお伝えします。実はほとんどの人が当てはまるんじゃないかな?と思います。
それは、御言葉の中で自分の納得した言葉だけを実行している、ということです。または、自分の生活の中で差し込めそうな言葉だけを差し込んで部分的に実行している、という事です。
だからといっていっぺんに全てをやれと言うのではありません。やれそうなことから少しずつやるのは構いません。ここで言いたいのは、『これは無理だから』と最初から決めつけてやろうとしないものがないのか、という事です。
説教を聞いた時、または聖書を読んだときに「え?何それ?」と感じることこそ、自分の課題であることが多いのです。
今現在の認識感は、それまでの自分が作り上げた認識感です。その認識感に従って行うのならば当然今までとは変わりません。
人は自分の認識感から外れた言葉を聞くと「え?」と思うのです。次元の違う言葉はなかなか飲み込めません。
だからこそ、違う次元へ行きたければ「え?」と思うようなことをやってみなければいけないということです。
例えば、カナンの地に入れなかったイスラエルの人たち。彼らが信仰心がなかったと思いますか?あったんです。彼らは神様を信じていました。でも、自分達より強そうな人々のいるカナンの地に入るのは無理だと思ったのです。それはそれまでの自分の認識感から来る考えでした。
イエス様を迫害したユダヤ人たちが極悪人だったと思いますか?彼らは熱心な信仰者だったのです。でも、メシヤは天から来てサタンみたいなローマをやっつけてくれる方だ、という認識感を持っていたからイエス様を受け入れられなかったのです。
彼らが自分達の認識感に従って行動した結果はご存知の通りです。
御言葉の中で「それはちょっと。。。」と躊躇したくなるような所にカギがあります。御言葉は天からのもの。躊躇するのは自分の心。
というわけで、今一度自分がどう御言葉を実行しているのか、点検してみてくださいね。きっと次元を上げるための答えが見つかると思います。
最後に聖句をご紹介します。
『 なぜなら、律法をことごとく守ったとしても、その一つの点にでも落ち度があれば、全体を犯したことになるからである。 たとえば、「姦淫するな」と言われたかたは、また「殺すな」とも仰せになった。そこで、たとい姦淫はしなくても、人殺しをすれば、律法の違反者になったことになる。 』(ヤコブ2:10~11)