今週は、「失った羊を探しなさい」とおっしゃいました。
これはあくまで私の経験上の話ですが。。
失った羊は必ず事前に兆候があります。本人がシグナルを出しているんです。
それをいち早く読み取れるかどうかがカギになると思います。
そこでなんですが。。。やはり、何事も聖書的に対応しなければならないけれども、日本人の民族性というのも考慮しなければいけないな、とも思うのです。
聖書的には「求めなさい、そうすれば与えられる」というのが真理であり、法則です。
ですから、自分の責任分担として、求めること、自分の事情を話すことなどが必要です。
まずは天に話し、そして直接的に人間に働きかけることも求めることになります。
何か自分にとって不都合なことや納得いかないことがあるならば自分から説明や改善を求める行為が必要なんです。
でも、大抵の人は何も言わないし、何の働きかけもしないですよね?
きっとこれが天のやり方なんだ、とか、きっと自分が悪いんだ、とか、自分なんかが言う立場じゃないから、などいろいろ考えて「何も言わない」「何もしない」を選択することが多いと思うのです。
こういうことを続けるうちにいつの間にか教会が自分にとって居心地の悪いところとなり、次第に教会から足が遠のく、ということが起こります。
だから、基本としては「自分が感じていることは自分が話してください」というのが純理ですし、法則的には言わずに黙っている方が悪い、ということになります。
ただ、変にそう叩き込まれてそこにこだわりすぎてもうまくいかないように思うのです。
「言わない方が悪い」「責任分担を果たしてないのだから仕方ない」とばかり言っていては羊はどんどん失われていきます。
元々日本人には「察する」「汲み取る」という能力がある場合が多いんですよ。
その力を使うべきだと思うんですね。
言葉には出ていなくても、相手からくる波長や相手が出しているシグナルに気付くことがとても大事だと思うのです。
「こうすべき」「ああすべき」「言った」「言わない」ばかりで人の管理はできません。
例えば、昨日の説教に出てきた「留学に行く」という話。
同じ「留学に行く」という事例でも、大丈夫な人とそうでない人がいるわけです。
だけど一律に、「留学はダメ」と言ってしまうと不都合が生じます。
また、逆に、一律に誰でも「良く思ってあげる」も失敗します。
誰でも信じてあげなきゃ、と思いたいのも分かりますが、そうではない場合があるのも事実で、これはマズイ、これは大丈夫、というのは感覚的に察知する必要があります。
自分の行いの基準は100%御言葉通りにするべきだけれど、人の気持ちは法則通りというわけにはいきませんから、本人から出ているシグナルを敏感に察知することがとても大事なのです。
つまり、人の気持ちはパターン化はできないし、理論で押し通せる問題でもないという事です。
何となく、法則だけにこだわりすぎて、本来あるはずの汲み取る力や察する力が落ちている人が多いようにも思います。
失った羊を探すことはとても大事なんですけど、根本的には失う前に未然に防げた方が良いですよね?
「心情は最先端の悟り」だと先生が昔からおっしゃっていました。
これは一言で言いかえると「愛」なんですよ。
真理の法則と、心情を察する力と、両方とも必要です。
つまりこれが本来あるべき霊的な管理、という事だと思うのです。
お互いに霊的な目を開いて相手を見れるようになりたいですね。