人は誰でも華々しい人に目が行くでしょう。言い換えると、世の中や教会内で脚光を浴びている人、話題になってる人、表舞台で目立つほど大活躍している人など。
そういう人は私も興味ありますよ。
そこでどうしてその人は華々しい立ち位置に立ったのかを見てみると、大抵、自分一人で自然発生的に華々しくなるというよりは、誰かが認めてくれて、引き立たせてくれて、華々しく表に立つようになる場合が多いと思います。
それで「あの人凄いな~」とか、逆に「なんであの人が??」などと人々は思うわけです。
華々しい人に影響されて心が前向きに動けば「よし!私も頑張ろう!!」となり、良い場合もあります。
ただ、「よし!わたしも!!」と前向きになって自分の立ち位置で気を引き締め直したりするなら良いですが、意図的に自分もその位置に行こうとする方向に心が動くと肉的になりやすいです。
また、華々しい人を見てマイナス方向に心が動いた場合は当然良い結果を生みません。
「私はダメだな~」とか、「どうせ私は認めてもらえない」など自虐の方向に心が向いてしまいます。まじめで頑張ってる人ほどそうです。
でも、よく考えてみたら華々しい人が一生の間華々しいという事はほとんどありません。ましてや永遠に華々しいというのは難しいことです。
さらに言うと、人生の価値は華々しいかどうか、誰かに認められたかどうかで決まるわけじゃないという事です。
私も長年信仰生活を続けてきて、華々しい人たちをたくさん見ましたし、先生にものすごく立てられたり脚光を浴びたりする人も見ましたが、今いない人もかなり多いです。
何か御心があって立てられたと思うし、本人の努力もあって力を発揮したとは思いますが、それは永遠の祝福を保証するものではないという事です。
また、自分の役割もず~っと同じではありません。時間の経過とともに、また年齢や経歴・実績と共に自分の立ち位置は変化します。その変化を受け入れられないと、そこでも問題が生じます。
だから、あまりにも目立つ人たちに影響されすぎる必要はありません。
あくまでも自分の人生は自分に対する神様の御心を成すものです。誰かに決めてもらったり、評価してもらうのではありません。
結局は、地道にやるべきことを続けている人が最終的な祝福を受けます。
この世で生きている間は全て過程。「今」は結末ではないのです。
だから、神様の御心に向かって今自分がすべきことをする、今日自分がすべきことをする、これで十分だと思います。来年は立ち位置が変わるかもしれないし、ましてや10年後なんて想像もつきません。
あまり外野の華々しさに影響され過ぎず、地に足を付けてしっかり自分の人生の道を歩んでいきたいですね。