先日、私が「講師訓練について」という記事の中でおすすめの講義の仕方を書きましたがそれにはモデルがいます。(「講師訓練について」の記事はこちら⇒ https://pastor.tokyo/own-opinion/about-instructor-training/ )
私が新入生だった時よく教えてくれた講師の1人です。
その人は、いつもスーツを着て、聖書一つだけ持って現れるのです。
当時は教会でホワイトボードの前に講師が立って伝えてました。だから今とはちょっと感覚が違うかもしれません。たとえて言うなら、少人数制の塾の講師みたいな感じ。
その人がいつも講義案も何も見ずにボロボロで赤線引きまくりの聖書を片手に熱血に語るのです。その姿を見るたびに「すごいな~」と思ってました。
しかもユーモアがあってとても面白く、かつ理論的でわかりやすくて毎回講義を聞くのが楽しみでした。
だから私は新入生のころは救いとか自分を変化させるとかそういう小難しいことは全然考えてなくて、ただ聖書の話が面白いし謎が解けるし早く先が知りたくて「聞きたい、聞きたい!」という思いだけで行っていた感じでした。
自分が講師になった時、その人をことさら意識していたわけじゃないのですが、そういう講義をたくさん聞いていたから、自然と講義はそうやってするものとインプットされていたようです。
講義案は見ないでするもの、講義は理路整然と、でも面白く熱く語るもの、服装もきちんとしてカッコよく・・・等々。
私は基本的には講義案はほとんど見ないで伝えるのですが、それは誰かにそうするように指導されたからではなく、自らそれが良いと思ってしていたのです。実際、周りでそうしている人はほとんどいませんでした。
自分があこがれたり凄いなと思っている人がいると、自然と目指すようになりますね。
でも、これが真の教育なんじゃないかな?と思います。
「教育」として受ける講義もありますが、自らそうなりたいと思って自発的な行為を促す存在がいたら良いですね。
そう考えると、 最終目標は勿論主であるわけですが、そこに至る過程においては身近な指導者の影響というのは本当に大きいと思います。
今になって、私は自分の努力だけじゃなくて、講師に恵まれていたから今があるんだなと思って感謝しています。
逆に・・・今となっては私自身がベテランの域に入ってきてしまって、先輩より後輩の方がはるかに多い状態になりました。つまり、見られる立場。
そういう意味では、できれば良い影響を与えられる存在でありたいな~と思いますし、そういう存在になれるように日々気を引き締めないといけないな、と思う今日この頃です。(笑)