昨日(11/15)の説教を聞いて、何となく心が痛みました。
先生がいろんなことで大変なんだなと思ってしまって。
先生の役割って、本来は、御言葉を伝えるだけで十分なんですよね。
なぜって、それが人々の救いになるから。
あとは聞いた人がその御言葉をどう受け入れてどう実践して生きていくかでその人の救いが決まります。
ですから、先生は御言葉を伝えること、霊の糧を与えることが私たちに対する責任分担です。
また、神様と共に生きる姿を実体で見せてくださるという事も大きいです。
だけど、何度言ってもやっぱり先生に良くしてもらうことを求めてしまう人が多いようですね。
勿論、先生に良くしてもらったら嬉しいし、恵み深いでしょう。先生に自分をアピールしたい気持ちも分かります。
でも、それで自分の霊級が上がるとか、救いの段階が上がるとか、そういうことを考えているなら完全に間違いです。
どんな場合でも例外なく、自分が御言葉をどう受け入れ、実践したかで霊の救いが決まります。
先生に会った回数や、握手の回数、先生に良くしてもらった回数で決まるのではありません。
なのに、先生に自分を覚えてほしいとか、分かってほしいとか、そういう人が世界中から殺到したら、先生はさぞかしストレスだろうと思ってしまいます。
それは自分自身に置き換えたらわかることだと思うのです。
皆さんが、自分自ら良くしてあげたい人ってどんな人しょうか?
きっと、単純に考えて、自分に協力的な人、自分を理解してくれる人、自分に良くしてくれる人等なんじゃないでしょうか?
自分には何もしてくれないのにいつも要求ばかりしてくる人はハッキリ言ってウザいですよね?
それは先生も同じだという事です。
先生に良くしてほしい、覚えてほしいと思うなら、「覚えてください!」「祈ってください!」とばかり言うのではなく、先生をもっと理解しようとすることが大事だし、先生が願っていることをすることが必要です。
先生はそれでも幼い人々が試みに遭わないように、ただ求めてくる人にも最低限のことはしてくださいますけど、何年も経った人が同じことをやると当然叱られますよ。
叱られるならマシだけど、最近は人が多いから完全にスルーされるかもしれません。
肉的には先生も一人の人間なんだから、肉的にしてあげることには人間の限界があります。
○○さんより自分の方が良くしてもらって嬉しいとか、△△さんより自分はもらってないとか、そういう事で一喜一憂するのはとても幼い子供と同じです。
信仰は人と比べるものではありません。
自分と神様の関係の問題です。
こういうことを十分理解する必要があると思います。
全ては神様がご存じです。
それを分かって人に左右されない大人の信仰を持ちたいものですね。