昨日、私の目の前で起こったちょっとした出来事について。
多分、ほとんどの人はスルーするような小さな出来事でしたが、私はなんとなく違和感を感じてしまったのです。
礼拝前、他教会からの訪問者をチェックする人が、教団の局長に「どなたですか?」と尋ねていたんですね。聞かれた本人はそれに対してどうのこうのというのはなく、むしろ「牧会者にしか連絡してなかったからごめんなさいね。」と言ってましたが。。。見ていた私の方が「え??それはないでしょう?」と思ってしまいました。
チェックしていた人は、決して最近来たばかりの人ではなく、すでに家庭局の人。それでこういう状況ってどうなんだろう??と思ってしまったのです。
教団で働いている人は普段教会ではあまり接点がないし、よく入れ替わるから知らなくても仕方ないのかもしれませんが、それでも昨日「どなたですか?」と尋ねられていた人は私よりも年齢・信仰歴共に先輩で、それこそ日本でメンバーが数人しかいない時から走っている重鎮なのです。
多分、会社でも会社の重鎮が職場を訪問して平社員が「どなたですか?」なんて聞いてしまったら中間管理職は大目玉じゃないかと思うんですよね。
教会は会社と違って主の元では平等だから誰は偉いとか偉くないとかそういうことがあるわけじゃないですし、重鎮を知っているかどうかが霊的な救いに影響するわけじゃないですけど、それでも自分たちの組織の中核を担っている方々を知らないというのはどうなのかな?と思ってしまいました。
でも、これが現状だという事を象徴的に見せてもらったような気がしました。
実際、最近は自分の教会の牧会者と直属の指導者くらいしか知らない人がほとんどなんじゃないですかね。関心もなさそうですし。正直、自分の救い・自分の教会以外は無関心ですよね。全体的に近視眼的な感じ。
家庭でも子供の時は子供らしく育っていれば良いですけど、ある程度大人になったら家の事情や親の事を考えて生きていくようになると思うのです。
教会でも、信仰が幼い時は自分の救いだけ考えてればよいかもしれませんが、ある程度大人になったら、自分たちのために働いてくれている人に関心をもって祈ってあげることも必要なんじゃないかな?まぁ、普段祈らないまでも、会ったら「いつもお疲れ様です。」くらい言えると良いなと。
そういう基本的なことが大切だと思うのです。
自分に良くしてくれるかどうか、自分がどう活躍できるのかなどの個人的なことや、自分の教会内の活動など小さな視点だけではなく、ある程度成長したらもっと大きな視点を持てると良いですね。