今週は使命の話が続いていますが、使命に関連することで、私が過去に聞いて印象に残っている話があります。
それは「御心」について。
先生曰く、御心には二種類あるのだそうです。
一つは、最初から神様が計画している「御心」。これは私も含め、皆さんが認識している御心の定義だと思います。
もう一つは、自分が聖霊の感動を受けて熱心にやっているうちに、それが御心になる、というものです。
先生も、昔行っていた教会で使命はくれなかったけれど、聖霊の感動によって一生懸命伝道していたら、今のような働きをするようになったわけです。
熱心にやっていれば何でも御心になる、というわけではないと思いますが、天の目にふさわしければ神様が祝福してくださり、やっていたことが実を結んで、結果としてそれは御心だった、という事になるのだと思います。
使命に関してはもう一つシンプルな話があります。
それは「気付いた人が使命者だ」という話。
これは聞いたことがある人もいると思います。私も幼い時よく言われました。
例えば、ごみが落ちている、と気付いたなら、気付いた人が捨てる使命者だということです。
今は以前より教会が大きくなって大教会化が進んでいます。
大きくなるのはそれだけ栄えていることですし、大規模な企画ができたりダイナミックに進めていけたりできる点は良い点です。
反面、きめ細かく、という点では小規模にやっていた時より難しいのかな?とも思います。
そういう大規模教会の隙間に気付いたり、不自由さを感じている人がいるならば、その人がその使命者として動けばよいのではないかなと思うのです。
世の中でも隙間産業ってありますよね?(今は言わないのかな?)
細かいサービスなど、大企業ではかえってやりにくいことを、小回りの利く中小企業や個人事業主がやって大当たりしたなんて話はよくあります。
教会でもそういう隙間産業的なものを見つけてやっていけば、それが御心になり、その分野の使命者になっていくんじゃないのかな?と思いました。
不自由だから誰かに不満を訴えるのも一つの手ではありますが、自分がその分野に手を付けて熱心にやっていけば、それが御心になり、立派な使命者になるんじゃないかと思います。
何度も話したことがあるのでしつこいようですが、私の今の使命も私が自ら先生に提案して許可をいただいた使命です。
天の世界は大きくてまだまだ足りない仕事がいっぱいあります!
ただひたすら上から言ってくれるのを待つ、という姿勢はもう時代遅れですし、それでは歴史が進みません。
天の歴史のために、能動的にこちらから提案できる新婦になっていきたいですね。