今週、「才能通りに仕事を任せた人が使命者だ。使命者がやりなさい」という説教を聞きました。
本当にその通りだな~と思いつつ、家に帰ってから過去の事を思い出しました。
私が牧会を始めたころ、その頃は何でも先生のようにできなければいけない、という暗黙の風潮がありました。
例えば、今でもスポーツをやると先生のチームが勝つじゃないですか?それは神様が共にするし、先生もそういう精神を見せるし、勝つまでやり抜くからそうなんですが、各地でそれを凡人の私たちが再現することは無理なんですよ。現実問題として。
でも、当時は牧会者のいるチームが勝たなければいけないような感じで、それが牧会者に求められてる役割みたいな感じがあり、私にとってはそれがとても負担でした。
だって考えてみたらわかるじゃないですか?元々バレー選手でもない私が入ったからと言って特別な戦力になるわけじゃないんです。だけど、なぜか霊的な場だから勝てるとみんな思い込んでるのです。
当時はスポーツ選手を伝道したかったからたくさん元バレー部の人とかも連れてきてたんですが、そういう人たちに私が太刀打ちできるはずがありません!
更に、スポーツの最後には必ず牧会者がまとめの一言を言わなければいけなかったのですが、それも負担でたまりませんでした。
それで、私自身は元々スポーツが嫌いではなかったのに、最初の牧会地ではスポーツの時間が嫌になってしまいました。
それで、「私はもう若くないから…」などと言い訳しながらだんだんスポーツから足が遠のいてしまいました。
使命地が変わり、次の牧会地へ行くことになった時、うまくいったこととうまくいかなかったことを次に生かそうと思い、あれこれ考えを整理していました。
その時スポーツに関してはこういう霊感が来ました。
「私は先生じゃない。だから先生の役割はできない。いつ先生が私にスポーツで証するように言ったのか?」
そう思って、次の牧会地ではスポーツで無理するのは辞めよう、と決心しました。その代わり、自分のセンターである講義や説教、伝道指導などは頑張ろう、と思いました。
幸い、その教会の副牧会者がバレー選手の男性だったので、スポーツの時間は全面的に彼に任せ、私は地上天国を作るための一員としてメンバーと一緒に楽しんで参加することにしました。
最後のまとめのコメントも私が言うのではなく、優勝チームのキャンプテンのメンバーに勝因を語ってもらうことに変えました。
そうしたら、私自身も負担なく楽しくスポーツに参加できるようになったし、副牧会者もその他スポーツが得意な人たちも活躍できる上に前に出て話す機会も出来たから、お互いに良い結果になりました。
私が楽しんでやっていたので、かえって新入生も繋げやすかったようです。よく考えたらしかめっ面して辛そうにしていたら繋げにくいですものね。
結局は自分の範囲内の事を精いっぱいやることが全体の益になるんだ、という事を実感した時でした。
おかしな責任感で余計なことをするとかえって自分も周りも苦しくなってしまいます。
自分自身はキリストの肢体の一つだ、頭ではない、という事を忘れてはいけないですね。