当たり前のことかもしれませんが、何かを遣り甲斐をもってし続けるには『希望』があるかどうかが重要だと思います。
例えば、オリンピックの強化選手達。たまに彼らの特集などありますが、それを見る限り、凡人の通常の生活からは考えられないほど過酷な生活をしています。毎日起きている時間のほとんどをキツイ練習に費やし、食事も制限し、遊びにも行かず・・・など。
なぜ続けられるのかと言ったら、自分がオリンピックに出たい、メダルを取りたい、という夢があり、またこれをし続ければきっとそうなれる!という希望があるからだと思うんですね。
ところが、ブラック企業などは全く希望がないわけです。
毎日毎日一生懸命働いて、パワハラにも耐え、努力もしているのに安月給で、これからも給料が上がる気配もなく、暮らしは楽にならず身体も壊し、次第に心も壊れていく。。。
同じ「過酷」な状況ではあるけれど、一方は耐えられ、一方は耐えられないという現実。
勿論、オリンピックの強化選手の状況も誰もが耐えられるわけじゃないと思いますが、耐えている本人の心理状態がブラック企業のそれとは全く違うと思うのです。
だから、環境が過酷かどうか、それだけが問題じゃないと思います。
極端な言い方をすれば、戦後間もない時の日本の状況なんて過酷以外の何物でもなかったと思うのです。でも、その時代の人たちは日本の復興という方向に向かって希望的に必死に生きていたと思うんですね。
多分、その当時は今のブラック企業に近い状況もあったのではないかと思うのですが、それでもそうする以外に生きる道がなかったし、戦争時よりはマシだという思いもあったのではないかと思います。
なんというか、「以前よりはいい!」と確実に思える状況だったと思います。
それってつまり、復活している感覚があるという事ですよね。前進している感覚ともいえるかもしれません。
だから、同じ過酷な状況でも、現在前進している感があったり、この先にはこうなれるという希望があったりしたら乗り越えられるのだと思います。
正直な話、信仰生活をして疲れ切ってしまうのは、自分が復活している感がなかったり、希望が持てなかったりするときではないでしょうか?
これは当然個人の信仰の問題でもありますが、指導者の立場から考えると、指導者が常に希望を与える発信をする必要があるのと、力を失っているメンバーに対してはその人が成長できるようなことを具体的に一緒に考えてあげることも必要じゃないかと思うのです。
ただ指摘したり、ダメ出しだけでは当然うまくいかないし、だからと言って何もしてないのにただ褒めちぎっていてもその本人は成長できないのでそれもどうかと思います。
また、警戒ばかりして過剰に制限するのも希望がなくなります。
逆に、ついていく立場の人たちは、指導者の顔色をうかがうのではなく、また指導者の気に入る人を伝道しようとするのではなく、自分が感動のある人を伝道すればいいし、自分が復活できることを御言葉に基づいて自分自身が考えることも必要だと思います。
神様は皆さんに向かって具体的に「ああしなさい、こうしなさい」とはおっしゃいません。
ただ、真理の法則の中でやりなさい、神様の主管圏でやりなさい、という事だけです。
「御心を成す」という使命は皆同じですが、具体的にやることが決まっているわけじゃありません。
神様に感謝しながら自分の個性を使って自分が栄えることは神様が喜ばれることです。神様も恋人がいつもニコニコして元気で美しく輝いていたら自慢なのです。
信仰生活をもっと自発的に面白く希望的にしていったら多少肉的に大変なことがあったとしても乗り越えられるだろうし、一人一人がもっと輝く存在になるのではないでしょうか?
誰かを経由した考えではなく、直接自分が御言葉を聞いた感覚を大切にしたいですね。