私は指導者だったのでいろいろ頼られることが多かったのですが、その場合、気分良く引き受けたくなる場合と、負担感を感じる場合とがありました。
どういう違いがあるのか自分で分析してみたのですが。。
解決の糸口を見つけたいとか、ヒントが欲しいとか、そういう場合は私自身も協力したいなという気になります。
でも、最後に私のところに来て、これで解決できないなら躓くというような状況の場合はかなり負担感を感じます。
私は神様でも先生でもないのです。
それなのに私の能力で躓かれても困ります。
特に、私を測るかのような態度の場合。
私に対して「もし○○だったらもう信じない」という態度で臨まれるとかなり負担だし、不快感さえ感じます。
これって、かなり上から目線の態度だとわかりますか?
そうではなく、現状を何とか打破したい、どう頑張ればよいかヒントが欲しい、などのスタンスで相談されるなら、こうしてみよう、ああしてみよう、といろいろ提案しながら一緒に解決していく方向で話を進めることができます。
「あなたが○○なら信じる」「あなたが××なら信じない」
こういうのは本当の意味での信仰者ではありません。口では信じていると言いながら人を当てにしています。
人を当てにしたり、人に依存したりするのは信仰とは言いませんし、いくら御言葉を聞いても平和になりません。
御言葉を聞いて受け入れる、主を救い主だと信じる、という事をクリアすれば一応信仰者と認められます。
でも、実際の信仰生活で人を当てにし、人に責任転嫁できる状態でいるなら、自分の身に御言葉通りのことは起こらないのです。
基本は、自分と神様の1対1の関係です。
信じる対象は神様。牧師や信仰の先輩ではありません。
牧師は、その人が神様と1対1の関係を持てるように御言葉を教え、協力する立場です。
いくら御言葉を聞いても、指導者との間で、または兄弟姉妹との間で「当てにする」「依存する」という関係ができてしまうと平和になりません。
協力と依存は違います。
依存は必ずどこかがゆがんでしまいます。
あくまでも信仰は自分自身と神様の関係です。神様と自分との間に人は介入しません。
自分の考えや行動の根拠が「〇〇さんに言われたから」であってはいけませんし、最初から「○○さんの言う通りにしよう」というスタンスも良くありません。
この場合、もしうまくいかなかったら絶対に「○○さん」のせいにしますよね?
それで不平不満が出たり信仰が落ちたりするわけです。
でも、当てにしているのでないなら、うまくいかなければまた次の対策を考えることもできます。
何度も祈って試行錯誤しながら一緒に解決していこうという姿勢なら、むしろ神様の御心を肌で感じることができると思います。
結局、一人一人が自立信仰を持つことも平和を作り出すことの一つなんじゃないのかな?