今週は「分別(ふんべつ)」についてでしたね。
一応、分別を辞書で調べてみると
『物事の是非や善悪を区別や区分すること。道理を判断してきちんと区切ること。わきまえること。また、そのような能力。』
とありました。
何が正しくて何が間違っているのか、何が善で何が悪なのか、はっきり分かって良いものを選択できる能力のことですね。
これって易しそうで難しい。。いや、難しそうだけど実は易しい??
実は私、元々はものすごく優柔不断で何事も迷うタイプだったんです。
優柔不断で迷うということは、言い換えると、自分ではなかなか判断や決断ができないタイプという事です。
もっと簡単な言い方をすると、どうすればいいのかよく分からない、という事です。
でも、指導者になってからは、自分が判断しなければ教会全体が無秩序になる、自分が決断して進めなければみんなが路頭に迷う、という状況が日常茶飯事になり、自分はこういう性格だから仕方ない、とは言ってられなくなりました。
そこで判断基準にしたのが聖書の言葉と最新の御言葉。
これを絶対的な基準に定めました。
そうしたら自ずと判断ができるようになったんです。
迷う時っていうのは、大抵、あの人はこう言うけどこの人はこう言う、とか、そう考える人もいるけど違う考えもある、など、どれもこれも一理あると考えてしまう時だと思うのです。
特に、日本人はいろんな人の気持ちを考えてしまいますから余計に迷って迷って迷いまくった結果。。。結局何も決断しない。。。という事も多いのではないでしょうか?
それで済む場合はそれでもいいですけど、でもどこかできちんと判断しなければ物事が進められないことも人生の中では多々あります。
あれも大事、これも大事。あの人の意見も分かるし、この人の意見も分かる。。
これだと決められないだろうし間違った判断をしてしまう可能性もあります。
だから神様に絶対的な基準を合わせることが間違いないのです。
こ神様はこういう場合どう判断したのか。聖書には何と書いてあるのか。壇上で宣布された御言葉ではどう言っていたのか。
正直、私たちが直面することって大抵はすでに過去に事例があるものばかりなのです。
人間が直面する問題って、表向きはあれこれ様々あるようだけれど本質的には変わりません。
ですから、聖書をよく読めば過去の人々の体験を読むことができますし、その週の説教や過去の説教の内容を吟味すれば出ています。
人間はいろんな考えがあり、いろんな性格、いろんな事情の人がいます。
だから人間の誰かに基準を合わせてしまうとどこかで不都合が生じてしまうのは当然です。
この問題はこの人に、あの問題はあの人に、と問題ごとに頼る人を決めてもきりがありません。問題の数だけ頼る人が必要になりますから。
結局、分別力をつけるには、しっかり真理の御言葉を学ぶこと。
そしていざという時、生活の中でそれを取り出すことができること。
いざという時は平素が出ますから、平素から御言葉を基準に生活すること。
シンプルだけどこれに尽きますね。(^^)