「平和」って時々難しいなと思うことがあります。
特に、こっちの思う平和とあっちの思う平和が食い違うとき。
私が牧会していた時に困ったことの一つは、最新の御言葉に従って教会全体の方向を変えようとしたとき、それでは個人的に不利益を被ると考える人がいたときの対応です。
結果的として教会全体が御言葉通りにして栄えれば誰も損することはないのですが、過程の段階で個人的にそうは思えない人がいると、物事が進まず大変でした。
全体が良くなることを考えての事だったとしても、個人的にそれを良く思わない人にとっては、嫌がらせをされた、という事になってしまいます。
だからどう捉えるかですよね。
全体的に神様の御言葉通りにした方が結果的に自分にも良いと考えるのか、単なる上からの圧力と捉えるのか。
圧力だと思ったらそこからは不和しか生まれません。
自分が邪険にされた、としか思わないからです。
せっかく平和を成そうとして御言葉を教え、御心を成そうとしても、受けた方が圧力としか捉えられないなら残念なことになってしまいます。
だからまずは、信仰が大事だと思います。
信仰がしっかり根付いてない人に、御心のために自分の思いを変えるように言ったところで話は通じません。
神様の存在を信じる。主をその方だと信じる。一般的にはこれだけでも信仰があると言いますが、実際はこれだけでは無理だと思います。
その通りに行えるかどうかです。
だから行いが大事だという事になるのですが、そうは言っても心を無視して無理やり行うのは信仰とは言いません。
そうする方が良いと信じるから行うのです。信じることが先です。
ですから、行いの時代だからこそ、より一層信仰心が大切になると思います。
まだ信仰が深くない人に強く行いの要求をすると、むしろ平和が崩れることになりかねません。
また、たとえ信仰歴が長い人でも、長年安住している人だと変化を嫌がる傾向にあります。
今までこれでやってきて問題なかったのに、なんでこのままじゃダメなの?と。
こうやって対立構造が出来上がってしまうのです。
こういう時は、理解してもらえるようにする努力と、相手を理解しようという努力の両方が必要です。
お互いそんなつもりじゃなかったのに、むしろ御心を成そうと思ってやったことなのに、結果的に平和が崩れるという事がないようにしたいですね。