皆さんは以前、「食事したりおしゃべりばかりして福音を伝えないなら意味がない」とか「これからの時代は福音伝道しなければ」という類の話を聞いたことがあると思います。
そういう話を聞いて以来、全体的に、いろんな媒体を通して伝道したり、楽しい時間を過ごしたりすることに対する否定的な見解が多くみられたように思います。
その上で今週の話を聞くと、なんだか矛盾するのでは?と思われた方もいたのでは?
こういう問題は今までずっとありました。
以前こう言ってたのに、今度は違う事を言っている、どうすればいいのか?という問題。
私自身、長年指導者として走ってきたのでこういうことに躓く人を少なからず見てきました。
勿論、時代の流れで変化するものもありますが、それよりも、根本的な問題だと思ってます。
一応、私自身の見解を先に言うと、実は、先生はずっと同じことを言ってる、と思います。
良くも悪くも、日本人の性質として「言われたこと」を「そのままその通りに」しようとするという傾向がありますよね?
これは信仰的には良い面もあるのですが、その言葉だけを切り取って何があろうとそのまま実行しようとすると無理が生じることもあります。
先生が説教の中で、どういう状況で、どういう人を相手にしていた時にそういう話が出たのか、という事をきちんと把握していないといけません。
ただ「○○すべき」とだけ、公式のような覚え方をすると、後で必ず矛盾が生じてしまいます。
人はそれぞれ違うのです。
人によって好みも違うし、立場も違うし。社交的ですぐ馴染む人もいれば、人見知りが激しい人もいます。
また、講義もパッと聞きたい人もいれば、じっくり一つ一つ説明してもらわないと理解が追い付かないというタイプの人もいます。
どちらが良いか悪いかという話ではありません。
タイプによって策戦を変える必要があるという事です。
私自身のことを言えば、私の実家は日本では珍しくキリスト教の家でしたから、教会や聖書などに対する警戒心は全くありませんでしたし、むしろ、聖書をちゃんと学んでみたいという心はありました。
だから、いきなり聖書の証をされて正解でした!
多分何かの媒体を紹介されても興味がなくて伝道されなかったと思いますし、私の性格上、知りたいことを先に知りたいのであって、お茶の時間とかはさっさと終わってほしいと思ってました。
色んな人から似たような話をされるのも好きじゃなかったし。
私みたいな人は、御言葉そのものに興味があるので御言葉を強烈に伝えてくれるのが一番の親切だったということです。
でも、そういう人ばかりではないでしょう。むしろ大半の人はそうではないと思います。
ちゃんと雰囲気を作って、いろんな証をして、警戒心を解いて、その上で御言葉を伝えるのが一般的でしょう。
また、証ばかり聞いて疲れてしまった人に、さらなる証は拷問同然です。
だから先生もその人には一緒にリラックスできるプログラムを組んだという事です。
ちょっと考えたらわかることですよね?
つまり、理に適うようにしなさい、という事なんです。
「福音伝道しなさい」というのは、御言葉を聞きたい人や早く聞かせるべき人に前置きみたいな雰囲気作りばかりを続けたら伝道できない、という事であって、聖書にバリバリの警戒心がある人に「福音伝道」と称していきなり福音を伝えても逃げられて終わるだけです。
それを「御言葉通りにしたのにうまくいかなかった」と言ってはいけないでしょう。
私たちは、聖書を学びながら旧時代の文字通り信仰を批判的に見るようになったと思います。
なのに、私たち自身が最新の説教を文字通り解釈するという矛盾を起こしていたらどうなるでしょうか?
こういうことを考えて、賢く福音を伝えていければよいと思います。
主の祝福が皆さんの上にありますように。