今週は実践についての話が出ましたね。
今まで私は指導者としていろんな人を教えてきましたが、同じように指導しても、実践できる人とできない人がいたんですね。
極端な話、同じ空間で同じ教育をした人達でもその後の行動は一人一人全然違っていました。
すぐに行動して変化が起こり始める人と、教育中は恵み深くうなずいて「アーメン」と連発していたのに行動しない人。
これは私にとっても課題でした。
なぜかと言うと実践しない人は救いに影響があるからです。恐らく、本人以上に指導者の私がやきもきしていたと思います。
だから、実践しない人を実践させるというのは、私の大きな課題でした。
何か、明らかな躓きや誤解があってできないという場合はまだ簡単なのです。その躓きや誤解を取り除けば動き出しますので。
また、信仰が幼くてあまり深く考えてなくてやらないという人もまぁ大丈夫。そういう人はしっかり信仰が入って事の重大性が分かるようになれば動き出します。
問題は、いつまでも何年経ってもどんなに教育しても「アーメン」と言いながらやらない人。
私自身が実践派だったので、私にとってはこういう人たちを理解するのが至難の技でした。(^^;
だからやっぱり研究しましたよ。やらない原因について。
これは本を読んだのではなく、そういう人の話と行動をしばらく観察して考察し、分析ました。
ハッキリと断言はできないのですが、私の目から見たらこういう人達もいくつかのグループに分けられる感じがしました。
そのうちの一つが「自分は出来ない人」と自ら定めている人。結構深刻なグループです。
自分はできない人、あの人はできる人、と最初から決めてる感じなんですね。
こういう人の思考回路は、あの人はできる人だからできる、私はできない人だからやっても無理、という感じなんです。
このタイプはどんなに励ましても作戦を一緒に考えてもやりません。話している最中はある程度盛り上がるのですが、結局「でも。。。」と言いながら「きっと私には無理」という結論に至ってしまうのです。
または、その時は「そうですね」という返事をしながら華麗にスルー。
他の成功事例を挙げても無駄です。その人はできる人だからできた、という認識だから。
つまり、やってもできないのではなく、やろうとしないという事です。
いや、やろうとしてないわけじゃないです!と反論されそうですが、私から見ると、やる前にあれこれ心配して悲観して「やらない」のです。「できない」のではありません。
これはもう半分病気だと思って自覚して直した方が良いと思います。今後の人生のために。
「できない」というのは誰が決めたことなのでしょうか?神様がそう言った?そんなはずはないでしょう。
自分の考えだという事です。これは考えや心の問題であって能力の問題ではないのです。
そういう考えに至ってしまった理由もあると思います。
でも、少々厳しいことを言うようですが、その理由を理解してもらおうとすることばかりに尽力するよりは直すことに焦点を当てた方が良いです。
なぜかと言うと、指導者が理解してあげて『そうなんだね、大変だったね』と言ってあげることはできます。
でも、結局は本人がやるべきことをやらなければ救いには至らないのです。指導者に理解してもらえばやらなくても良いということにはなりません。
最終判定は指導者が決めることではなく、神様が決めることです。
そして判定基準は御言葉です。例外はありません。
なぜか、「神様はきっと私の気持ちを分かってくれるからやらなくても許してくれるはず」と思っている人もいます。
とりあえず、私はそういう御言葉は聞いたことがありません。
これは、頑張ってやってみたけど結果的にうまくできなかったという場合はとは違いますよ。
頑張ったけどできなかった場合は、その頑張りは全て天に覚えられています。でもやらないことは記録なしです。
だから、結果がどうであれ、とにかくトライすることが大事です。
たとえ実績がなくても頑張りの記録くらいは残したいじゃないですか?
やらない人の運命はタラントを地に埋めてしまった人と同じです。
自分は「できない」のではなく「やらない」だけではないのか?ちょっと点検してみてくださいね。