今回は久しぶりに講義について話をしようと思います。
結論から先に言うと、講義はできるだけシンプルな方が良い、ということです。
講義はお話や物語ではありませんので、伝えたい内容が根拠とともにハッキリすっきり入ることが望ましいです。
だから、基本はできるだけ簡潔に、理路整然と伝えることです。
話し方を柔らかく物語風に伝えるとしても、話の道筋はきちんと立っていないといけません。
ただ、今までいろんな人の講義案を添削したり、講義を聞いた直後の新入生の感想など聞いたりしてきた経験から言うと、いきなりあれこれ盛り込んでる人が多いような気がしています。
親切すぎるのです。
あれも伝えてあげたい、これも伝えてあげたい、という気持ちから詳しくする場合もあるだろうし、この説明で伝わらなかったらどうしようと思って微に入り細にわたる説明をしてしまう場合もあると思います。
何というか、先回りして細かく説明してあげてしまう感じ。きっとこれじゃわからないだろうなという考えから。
それと最近は、与えられた講義案で講義をすることが多いので(自分でまとめないため)、私が講義の練習で聞き役になった時「この講義でどうしてこの話をするの?」と質問すると答えらない場合も多いです。
それとか「この話をこの位置でするのはどうして?」と質問して答えれないこともあります。
質問された方は恐らく「え?だって講義案に書いてあるじゃない?」と言いたいでしょうけどね。
私からすると、その話はすることもあるけど必ずしもこの講義でしなければいけない話じゃないな、と思う内容もあるのです。
また、話を入れるにしても、そこじゃなくて違うタイミングで入れた方が効果的だと感じる場合もあります。
なので、何が言いたいかというと、講義には必ず言いたい核心があり、それを導くために聖句を根拠にしながら理論的に道筋を組み立てていくことが大事だということです。
講義する本人がその道筋をしっかり把握できてなければちゃんと講義できません。
だけど、なぜか与えられた講義案を無条件そのままそっくりやろうとしている人が多いのです。
だから丸暗記に近い状態で講義をすることになり、突っ込まれると答えられなくなるのです。
講義案を利用することは良いですが、その講義案の中でどこが核心的な道筋でどこが省いていいものなのかを見分けないといけません。
え?そんなの私には難しいよ、という声が聞こえてきそうですね。(笑)
いやいや。違うんですよ。そんなに難しく考えなくていいのです。
自分だったら納得できるかどうかを考えればよいのです。新入生の時の自分が理解できる道筋であれば大丈夫だという事です。
まずは、講義の中で話すたとえ話などは省いて聖句だけでレジュメを組み立ててみることをお勧めします。
聖句が骨格ですから。骨格がハッキリわからないといけません。
その聖句の説明や補助的な説明としてたとえ話や世の中の話を入れるわけです。
基本は聖句。これが大事です。
逆に言うと、骨組みがしっかり頭に入っていれば付随する話はいろいろ応用できます。
こういう譬えの方がわかりやすいなとか、この子にはこういう言い方の方が良いかなとか。
あるいは、補強のためにこの聖句も一応入れようかなとか。
実際、私の講義案はほぼ聖句のみです。だから紙切れ一枚だけ。(笑)
だからすぐに覚えられて、すぐに講義案を見なくても聖書一つで講義できるようになります。
講師本人が骨組みを把握せずにあれこれ盛りだくさんで講義すると、聞いている方がわけがわからなくなります。
親切心で盛り込んだとしても、講義案に書いてある通りにして盛り込んだとしても、理由は何であれ、聞く側の新入生のキャパには限りがあるので盛り込みすぎるとキャパオーバーで溢れ出てしまっていることが多いです。
だから、講義はできるだけシンプルに。その方がわかりやすいです。
聖句そのものに威力がありますからね。言葉数が多すぎるとむしろ肉的な講義になってしまいますよ。
骨組みだけじゃ難しそうなところだけを補って肉付けすればいいと思います。
聖霊の感動というのは自分があたえられるものではなく、天から与えられるものですから。天のオリジナルの言葉で組み立てていくのが一番です。
是非、みなさんトライしてみてくださいね。