今週、先生が、癒しのお祈りは本人の信仰の他、「時」が大事だとおっしゃってました。
何事にも時がありますからね。。でもこれが本当に難しいと思います。
なぜ難しいかというと、癒しに限らずお祈りを受けようとする場合、時はこちらが選ぶからです。
勿論、日々のお祈りとして先生は全ての人のために祈っているし、それは牧師を始めとしたほかの指導者も同じでしょう。
でも、個人的な細かいことは各々の申し出がなければ分かりません。
いつ申し出るかは申し出る本人が決めることであって個人の責任分担の範囲です。
時が合わないといくら祈っても限界があります。
特に時が過ぎ去ってしまってから(端的に言うと手遅れの時)はお祈りを頼まれる側はもかなり負担だと思います。
私は深刻な病気のためのお祈りは依頼されたことはないですが、霊的な病気なら何度もお祈りや面談を頼まれました。
その時ほぼ毎回思ったのが「どうしてもっと早く相談してくれなかったのか」ということ。
相談する側は遠慮に遠慮を重ねて、指導者に迷惑かけないようにと心掛け、出来る限り自分だけで終わらせようとしたけれど、結局どうしようもなくなって「お願いします。」と来るわけです。
その気持ちは分かりますよ。私も主について行く立場ですから。
でも、実際は来るのを遅らせ、状態を悪化させてから来ることの方がより指導者の負担を増やすことになるのです。
それは頭の片隅にでもいいから覚えておいてほしいな~と思います。
中間指導者が自分のチームのメンバーを牧会者に報告するときなども同じです。
何とか自分のチーム内の事に治めようとして、結果としてより悪い状態で牧会者につなぐことになります。
良かれと思ってやったのは理解できます。
でも、あの人この人の事を考えるより、どうするのが最短で解決できるのかを考えるべきです。
救いの最短コース。
霊的な病気だけじゃなくて迫害関係もそうです。早く手を打った方良いのです。
何も言わないままで「気付いてほしかった」「指導者なら気付くべき」というのは聖書的には違います。
求めることは責任分担だからです。「求めよ、そうすれば与えられる」という事です。
迷って、躊躇している間に時は過ぎていきます。その間サタンは迷わず攻撃し続けます。
大抵、迷う時は自分の考えや自分を取り巻く状況が複雑に絡んでいる時ですよね?
だから問題にぶち当たった時ほど頭を空にして御言葉を入れ、祈って聖霊の感動を受ける必要があると思います。
ほとんどの場合、問題解決のための動きは早ければ早い方が良いです。
時についての間違いを犯さないよう、日々祈っておくことも大切ですね。