今まで指導者としていろんな人を見てきたのですが、同じように教えても結果は人それぞれです。
また、同じみことばを聞いてもその後の反応が人によって全然違います。
勿論、個性が違うし、センターが違うから、というのもあります。
ただ、個性やセンターに関係なく、いつもなぜかうまくいかなかったり、戸惑ってばかりの人もいます。
今回はそういう人の特徴について、私なりの視点で語ってみたいと思います。
結論から一言で言ってしまうと、そういう人は、言葉をきちんと理解していない、という事です。
頑張って言われた通りにしようとしているのは分かります。悪気がないのも分かります。
でも、分かってないのです。何を意図してそう言っているのかを。
ただ、その時その時言われた言葉だけをとらえてそれを忠実にしようとしているのです。
その時その時の「言葉」だけに忠実になってもうまくいきません。
例えば、何か企画があるならその企画の最終目標は何なのか、そのどの過程でどのポジションの事を言っているのか、など分かって行動しないといけないのです。
戸惑っている人もそうです。あの時はああ言ったのに、今度はこう言った、と言って戸惑っています。
あの時とこの時がどう違うのかを考えなければいけません。「言った」言葉だけを考えてはいけないという事です。
これは本当に基本的な事なんですけど、意外と戸惑う人が多いのです。
先生のみことばも聞き分けられないといけません。
以前、私が驚いたことがあります。
こういう質問を受けたのです。『先生の説教を聞いていると、ある時は「心を空けなさい」と言うし、ある時は「よく考えなさい」とも言います。一体どっちなんですか?』と。
一瞬、この人は本気で言ってるのかな?と思ってしまいました。
確かに言ってますよ。どっちも。心を空けなさいとも言うし、よく考えなさいとも言います。
しかも、心を空けることとよく考えることは一見相反するようなことに思えます。
でも、ちゃんと聞けば戸惑う事なんてないのです。
御言葉を聞くときは「心を空けなさい」です。でも、自分が行う時は「よく考えなさい」です。
心を空ける時とよく考える時とでは場面が違うのです。
神様の御言葉は自分の邪心や雑念を取り除いて心を空けた状態で聞かなければいけません。そうした時に何のフィルターにもかからず全てを受け入れることができます。
みことばを聞くときだけじゃなくて、祈る時や礼拝するときなど、神様と一対一で対面するような場面では全て心を空けなければいけません。
しかし、自分が行動するときは、それは自分の考えでやっているのか、この行いは御言葉に反していないのか、またはどうすれば御心を成せるのか、等よく考えなければいけません。
表面的に言葉だけを捉えるとこういう頓珍漢なことになってしまうのです。
言葉を聞く力、文章を理解する力、というのが必要です。
言葉の分別力がないとちゃんと実践できません。
では、どうすればそのような力がつくのか?
全ての原理は同じです。サッカーがうまくなりたければサッカーの練習をたくさんしなければいけません。ピアノがうまくなりたければピアノを練習しなければいけません。
つまり、たくさん聞くこと。たくさん文章を読むこと。
SNSのような短い「話し言葉」ではなく、ある程度まとまった文章や言葉に触れることです。
特に文章を読むのが苦手な人はいきなり難しいものから入らないで、易しいものから始めれば必ず言葉の力はつきます。
スポーツも初心者のうちから難しいワザを学ぶのではなく基本から学ぶのと同じです。
日曜日の説教をよく読んで、自分なりに箴言を抜き出すという事もしてみると良いでしょう。
先生の御言葉は、霊的には非常に深い話ですが、言葉そのものは難解なものではなく易しい言葉です。まさしく「塩で味付けられた言葉」です。
いきなり全文を続けて読むのが難しければ、いくつかのブロックに分けて少しずつやっても良いと思います。
実践、実践というあまり、言葉を理解しないままただ実践してしまうと、ひたすら失敗経験ばかり積むことになります。
この期間、しっかり言葉を理解できるように訓練することも、後に実践力アップにつながるのではないかと思います。
心当たりのある方は是非やってみてくださいね。