誰でも苦手な事ってありますよね?もしなければその人は神様のように完璧な人だと言えます!
私は普通の人なので当然苦手なことがあるのですが、中には克服できたかな?というものもあります。それをどう克服したのかについてお伝えしますね。
結論から言うと、いつの間にか克服していた、という事です。これじゃ答えになりませんね。(笑)
でも、これが現実なのです。振り返ってみると、克服できたものに関しては無意識のうちにいつの間にか克服していたのです。
昨日の記事と重複しますが、私は大した準備もなく先に使命をもらったので、何とかやり抜かないといけない状況でした。そういう状況になると、これが得意とか苦手とか、そんな事言っていられる場合でもなく、とにかく自分がやるしかなかったわけです。
例えば、講義の経験がなくても他に講師がいません。スポーツは自分のセンターじゃないし・・・とか言っても、みんながスポーツの企画に新入生をドンドン連れてきます。初対面の人は苦手で‥と言っても、みんなは自分が伝道したい人に会ってもらおうとして連れてきます。
こういう逃げられない状況だったということです。ただ、この状況だけが自分を動かした理由ではありませんでした。
私の場合、最初の牧会が開拓教会だったので、本当に人がいなかったんです。最初は私を含めて8人。だから一人でも来ると心から嬉しくて、自分が苦手かどうかよりも、来た人は一人も逃したくない、みんな仲間になってほしいという気持ちの方が大きかったのです。
だから当時はどんな人でも選り好みせず会いまくりましたし、聞きたいという人がいれば講義しまくりましたよ。(笑)
こうやって過ごしているうち、ある日ふと気が付いたら、『そういえば昔はこれは苦手意識があって絶対にやらなかったな~‥』ということを普通にやるようになっていたというわけです。
多分、まじめな人は「まずは自分の苦手を克服すべき。使命はそれから。そうじゃないと迷惑をかけるから。」という思考だと思うんです。そして自分の苦手に焦点を当て、それと向き合うという感じですかね。
でも、それだと落ち込むことが多くありませんか?自分の苦手ばかり見つめていたら正直誰でも嫌になると思うんですよ。
それよりも、「こうしたい」「こうなりたい」という気持ちを優先させてやっていくのが良いと思うんですよね。そうすれば苦手がどうのこうのという話じゃなくなっていくと思います。まぁ、賛否両論あるかもしれませんが。
少なくとも私自身はこんな感じでいつの間にか以前苦手でやらなかったことを普通にやるようになっていました。
だからと言って今現在、苦手なことが全くないという事ではありません。まだまだ完璧じゃないです。でも、苦手に躓いているよりは、追い求めていくことに意識を向けた方が良いのではないか?と個人的には思っています。
参考までに、最後に私の好きな聖句の一つをご紹介しますね。
(ピリピ3:12~14)
わたしがすでにそれを得たとか、すでに完全な者になっているとか言うのではなく、ただ捕えようとして追い求めているのである。そうするのは、キリスト・イエスによって捕えられているからである。
兄弟たちよ。わたしはすでに捕えたとは思っていない。ただこの一事を努めている。すなわち、後のものを忘れ、前のものに向かってからだを伸ばしつつ、目標を目ざして走り、キリスト・イエスにおいて上に召して下さる神の賞与を得ようと努めているのである。