私達は何かをもらった時や何か良いことがあった時などに祝福を受けたと感じます。特別感がある時ですね。でも、使徒パウロは福音を信じてついてくる仲間たちが自分の冠だと言いました。つまり、ついてくる人が祝福であり栄光だということです。
実際、わたしたちの主イエスの来臨にあたって、わたしたちの望みと喜びと誇の冠となるべき者は、あなたがたを外にして、だれがあるだろうか。あなたがたこそ、実に私たちのほまれであり、喜びである。(テサロニケ人への第一の手紙2:19~20)
だから、わたしの愛し慕っている兄弟たちよ。わたしの喜びであり冠である愛する者たちよ。このように、主にあって堅く立ちなさい。(ピリピ4:1)
「人」って不思議ですよね。
人によって嫌な思いもするけれど、人によって喜びも得たりします。
私自身を振り返ってみても、人によって傷ついたり思わぬ苦労をしたりしたこともありますが、人に助けられてここまでこれたことも否めません。
今まで私が使命で功績を立てることができた時、霊的には神様が助けてくださいましたが、肉的にも必ず一緒に働いてくれる仲間がいました。私一人で出来たことはひとつもありませんでした。
実際に仕事を一緒にやってくれた人のみならず、盛り上げてくれた人、アイディアを出してくれた人、疲れた時心が和むようにしてくれた人、おいしいご飯を作ってくれた人・・・等々挙げたらキリがないくらい、様々な人に助けられたなぁと思います。
何かを成し遂げた時の喜びというのは、何かをもらった時の喜びとは全く次元が違います。
もらうという行為は受け身だけれど、成し遂げるというのは能動的な行為だからです。
だから、成し遂げるようにしてくれた仲間たちというのは私にとっても本当に冠のような存在だなと思います。
神様の祝福とはこういうものだなと思うんです。
神様から特別何かを受けたらそれはとても嬉しいですけど、そういう特別感ばかりが祝福だと考えるとあまり祝福を受けてない気がしてしまいます。特別な時はそんなにありませんから。たくさんあったら特別とは言わないですしね。
そういう事よりも、自分の考えや精神をみことばで作り、それを土台にして何かを成し遂げられるようにしてくれることが神様の福福じゃないかな、と思うのです。この世でもらう分の祝福。
この祝福は一人ではなく、仲間と共に受けることが多いです。
そうしてこのような祝福に対して神様に日々感謝し、喜びでこの世を過ごした延長上に霊界での祝福があると思うんですよね。
自分だけの特別感、お得感、ご利益を求める信仰も悪いとは言いませんが、神様はもっと大きな喜びと祝福をくださろうとしているという事を忘れてはいけないですね。