世の中で生きていると、「私は〇〇さんのせいで力を発揮できなかった」とか、「××さんに傷つけられてこんな性格になった」とか、そういう類の事はたくさんありますよね。
この、〇〇さんや××さんが、会社なら上司や先輩、或いは同僚、職場環境などになるだろうし、教会なら牧師や執事など肩書のある人や、教会内のシステムなどの事になるだろうし、家族という場合もあるでしょう。
問題は、そういう目に遭った後どうするかだと思うんです。
正直、今まで生きてきた中で、一度も傷つけられたことがない人、一度も無念な思いをしたことがない人なんているのでしょうか?もしそういう人がいらっしゃるならそれはとても幸いな人だと言えると思います。
でも、大多数の人は、多かれ少なかれ、何等か無念な思いや理不尽なことをされて悔しい思いをした経験があるのではないでしょうか?
その時、自分自身を「私はこんなひどい目に遭ったかわいそうな人」という設定にしてしまったら、もうそこが固定席と言いますか、その位置でずっと行くしかないと思うんです。
言い換えると、そういう人は常に被害者のポジションをとり、自分は被害を受けたからこうなった、今の自分はこう言う理由でこうなったんだ、という事を言い続けて一生が終わってしまうと思うんです。
そうなると、確かにかわいそうだったかもしれないけれど、結果的には発展のない人、復活しない人で終わってしまいますよね。
キリストは誰よりも無念な思いをされたにもかかわらず、被害者のポジションに自分を固定することはありませんでした。
もし、被害者としてのみ存在したなら、その後の栄光はなかったでしょう。
残念ながら、世の中の人がみんなキリストではありません。みんな自分にキリストのように接してくれるわけじゃないし、自分も相手に対してそうでしょう。
だから、いつまでも過去の悔しいことにこだわっていると、自分だけが遅れてしまいます。
また、悔しさのエネルギーを相手に当たり散らすことや、犯罪や悪など不法に手を染めることで爆発させても自分が罰を受けるだけです。
だからといってただ我慢する、というのもきついですよね。
キリストが苦難の後栄光を受けたのはただ我慢したのではなく、その状況の中でできることをやって次へのステップにしたんです。
イエス様は生前、散々迫害を受けながらも福音を伝えられたし、三日半の墓の期間の後、40日間霊で弟子たちに現れて福音を伝えられ、弟子たちをもう一度目覚めさせてから昇天されました。それがあってこその、その後の2000年の歴史です。
先生も、苦難を受けていた期間、どう過ごされたのかを話してくださいました。それがあっての「今」です。
私たちも、ただ主から受ける事ばかりを考えるのではなく、キリストの生き方、精神をまねていくことが大事ですね。