よく「真理は人を自由にする」と言いますよね。
というか、ちゃんと聖書に書いてありますね。(ヨハネ8:32)
でも、日本人の多くは、教会に行くと自由じゃなくなる、と言います。なぜかというと、お酒ダメとか敵を愛しなさいとか柔和じゃないとダメとか清い生活しないといけないからあれこれ窮屈だと。
好きな人を好きになり、嫌いな人を嫌うこと。好きな食べ物を食べ嫌いな食べ物を食べないこと。腹が立ったら我慢せずに思いっきり怒ること。こういうことを自由だと思っているんですね。
でも、嫌いな人がいなくなったり、好き嫌いがなくなったり、身体によくないものは食べたくなくなったり、いちいち腹を立てなくなったりしたらもっと自由だと思いませんか?
嫌な人がいる、という時点でそれは縛られた人生。だって嫌な人がいたら『嫌だな』という感情に縛られて余計な気を使います。
どんな人も愛せるようになったらそんな余計な手間はいらなくなります。誰に会っても好きな人だったらそっちの方が幸せです。
何事も鍛えられてこそ本当の自由が手に入るものです。
例えば、私は小さいころからピアノを習ってるからある程度弾けるわけですが、何も知らない初心者に、ピアノを自由に弾いていいよ、と言ったらどうでしょう?本当に適当に自由には弾くと思いますが、きちんと弾くことはできないでしょう。
ちゃんと弾き方を習ってちゃんと弾けるようになったら本当の意味で「自由に弾ける」という次元じゃないですか?
人生も同じ。御言葉で磨かれて鍛えられた人が本当の自由人であり、そのお手本がキリストなんだな、と思うのです。
今朝の箴言
『<選り好みして嬉しいという主管>を捨てて、<ああであってもこうであってもうれしいという次元>にまで行かなければならない。』
これこそが本当の自由ですね!