失敗体験というのは誰だっていやなものですが、実は失敗体験は強烈な学びの体験とも言えます。だからその時は辛くても後で良い結果をもたらす根源となり得るのです。
またまた私の体験談で恐縮ですが、実際にそういうことがありました。
私が初めて牧会をしたのは1995年で、しかも開拓教会。当時は全体的にシステムも整っていなかった上に、私自身もまだ20代で何もわかっていない時でした。
その私が牧会2年目の1997年、教会で大迫害が起こったのです。その時の教会の規模は30人いるかいないかというくらい。でも、開拓教会特有の活気があって、毎日毎日聖書の講義をするのに忙しい日々を送っていました。
具体的に言うと、30人弱のメンバーに対して毎日5~10人くらいの新入生が来ていたんです!だから毎日本当に大忙し! これから栄えていくだろうという気配がしていたし、教会全体に希望に満ちていた時でした。
そしてその新入生たちの聖書の勉強が進み、いよいよ礼拝に出ようというころ、それは起きました。ある1人の新入生が親に止められたことをきっかけに、芋ずる式に10人くらい(正確な人数は忘れました)突然来なくなったのです!そしてみんな音信不通になりました。
恐らく、100人規模の教会でも10人の新入生が一度に来なくなったらショックを受けると思うのですが、それが30人規模で起こったので衝撃はあまりにも大きかったです。私だけじゃなくて、一緒に講義やもてなしで頑張っていたメンバーも力が抜けてしまいました。
教会全体が活気に満ちていたのに突然閑古鳥が鳴いたようにひっそりとしてしまったので、ただでさえショックなのに、現実を見てさらに失望感まで湧いてきました。
さらに追い打ちをかけたのは、その新入生たちが、今度は裏で私たちの悪口を言っているというのを知ったことです。
あの時はみんな喜んで聖書の話を聞いていたのに。。みんな感謝してたのに。。。どうして???
当時は情報もなく、私の経験もなかったので本当に頭の中が???で、一体何が起こったのか理解できませんでしたし、何の対策も施せませんでした。ただただ茫然としてしまったのです。
その後はじわじわと人に対する不信感が湧いてきて、気軽に聖書を教えなくなりました。今度は反動で物凄く警戒しながら恐る恐る人に会う感じ。そのため、教会はひっそり閑古鳥状態が半年以上は続きました。
そんなある日。ふと私の中である考えが浮かんできました。『この状態を誰が喜んでいるのか?』と。
それは何かをじっくり考えて得たというより、突然降ってわいたような感じで、まさしく聖霊の感動だったと思います。
それから自分の中でその言葉を反芻しました。誰が喜んでいるのか?確かに、人を警戒してなかなか聖書も教えず、教会もひっそりしたまま。この状態を神様が喜ぶはずはないなと。これは教会が栄えない事だからむしろサタンが喜ぶ状態ではないか、と。自分達としては、これ以上悪評が立たないように気を付けていたつもりだったけど、実際はサタンを喜ばせていたということか、と。
そう悟った瞬間から考えが変わりました!こうしてはいられない!と。自分がサタンを喜ばせていたと知ったら腹が立ってきました。
それからは知恵をもって対策も立て、息を吹き返したように人が増えていきました。(具体的にどうしたのかは書くと長くなるので今回は省略します)
とにかくこのイタイ経験があったので、約10年後、再び大迫害が襲ってきたときほとんど影響を受けずに済みました。その時は違う教会に移っていて、教会の規模も迫害の規模も大きかったですが、あの時の二の舞は踏まないと心に誓っていたので最初から負ける気がしませんでした。絶対にサタンを喜ばせることはしない!と決心を固めていました。
当時は迫害の影響が大きく、全国的にひっそりしてしまった教会が多かった中、私が牧会した教会だけはほとんど影響を受けなかったのでいろんな人から不思議がられ、あちこちからどうやってるのか見に来たいと見学に来たほどでした。
これは、最初の牧会地での強烈な失敗経験があったからこそ得られた結果です。だから、後になってみれば、失敗経験も祝福でしたね。
主の中でおこる全ての経験は無駄なことはありません。その時は理解できなくても、ショックで動けなくても、それが自分にとっての学びになるなら後には感謝できる時が来るでしょう。
最後に一つ聖句を紹介しますね。ダビデの体験談かな?
苦しみにあったことは、私に良いことです。
これによってわたしはあなたのおきてを
学ぶことができました。
(詩篇119:71)