信仰の世界にいると、人の評価を気にするな、神様の目を意識しなさい、という事をよく聞くと思います。
でも、正直人の評価を全く気にせず生きることって不可能なんじゃないかな?とも思います。
不可能とまで言い切ってしまうと語弊がありますが、まぁ、相当難しいだろうなということです。人の中で生きていますから。
私自身も振り返ってみると、若い頃は人の評価・人の目を意識していたと認めざるを得ません。当時は「私は人の事なんか気にしない!神様の目だけを意識しているから!」なんて言ってましたけどね。(笑)
ただ、人の目を気にすることが完全悪だとも思わないんですよね。それが積極的に頑張る原動力になるのだったら。
私も牧会していた当時、牧会するなら自分の教会が宣教一番になりたいな、などの思いがあったからこそ頑張れたような気がします。「一番になりたい」というのは他人より上になりたいということですから、明らかに人の目を意識してますよね。
一番になりたかったからたくさん聖書の勉強もしたし、宣教の研究もしたし、たくさん教えたし。。。結果的にはそういうことが自分の糧になったと思います。だから動機は「一番になりたい」だったとしても、結果として頑張ったことは自分にとって良かったことだと思ってます。
逆に、人の目が自分を縛ることになるんだったら自分にとって悪ですよね。私はこれもまた経験しました。
人の評価に対して恐れが生じると何事も躊躇してしまいますし、自信がなくなっていき、行動力が落ちていくんです。否定的な考えが先に来て積極的になれないんですよね。
この状態はものすごいストレスになります。精神も病みますし、体調も崩します。
今は両方経験して、かなり開き直ってきました。歳のせいもあるかもしれないですけど、若い頃のように「一番になりたい!」なんていう覇気もありませんし、ただ平安に過ごしたいな、という感じです。これも老化現象なのかな?(笑)
今までを振り返ってみて、たくさん祝福をもらったなと思う反面、悔しいこととか納得いかない事とかもいっぱいありましたが、結局はなるようにしかなりません。(苦笑)
こう言うと元も子もありませんが、そういうものだと思った方が良いです。理不尽な扱いを善良な誰かが訂正してくれるなんてことは期待しない方が良いです。勿論自分の責任分担は果たすべきですが。
では何が祝福なのか?・・・私が考えるに、それでも「神様の主管圏にいる」ということだと思います。
人からどういう扱いを受けたのかは救いとは関係ありません。牧師や先輩に認められないことが自分の救いに影響を及ぼすわけでもありません。
だから人の評価がどうであれ、その評価が自分と神様との間の障害にはならないという事です。人の評価はあくまでも人間界での話。
もし障害になるとしたら…それは人の評価で自分の心がひねくれてしまい神様に対する思いが変わってしまうこと。これが一番損です。
だから、人の評価は正直気になってしまうかもしれないけれど、神様と自分の関係を断ち切るものではない、という事をはっきり認識することが大事ですね。
神様は肩書や評価ではなく、あなたそのものを愛していらっしゃるという事をお忘れなく💛