よく教会で耳にする「証になる」という言葉、ちょっと間違えると危険な方向に行きかねないな、と以前から思っていました。
例えば、ある人が人知れず教会のために一生懸命祈っていたところ、たくさん伝道されたとか、みことば通りに生きようと努力していた結果、社会的な地位もついてきたとか、そういうのは証になると思うんです。
でも、逆に考えている人が結構多いように見受けられます。
どういうことかというと、「証になる!」と自ら決めて、証になろうとして行動するパターン。
「証」はあくまでも本人が熱心に信仰生活をした結果ついてくるものであって、最初から狙って目標にするものではないと思うんです。
根本的に、信仰生活というのは霊の救いのためにすることであって、証になるためにするものではないです。証になりたくて熱心にするならそれは、それはエゴであり、名誉欲と変わりがありません。
実際に救いに必要なことはあまり華々しいことではありません。日々お祈りし、御言葉を読み、実践し…等々。また、陰で弱ってる兄弟姉妹に連絡を取ったり、祈ってあげたり、あれこれ文句言われながらも根気強く話を聞いてあげたり・・・でも、こういう働きはあまり表に出てきません。
だから、証になりたくて熱心にする人は、こういう地道で本質的な救いの行いができません。やっても長続きしない。なかなか日の目を見ないから。しかしこれでは本末転倒です。
私利私欲なしに、心と思いと命を尽くして主を愛し、兄弟を愛すること(マタイ22:36~40)、これを実践した先に神様が祝福をくださるという事を忘れてはいけないですね。