今週「主が解いてあげよう」という説教でしたね。
そして実際、聖書の本文を解いてくださる内容でした。
先生の説教には愛の話、霊界の話、実践の話等々いろんな種類の話がありますが、私が個人的に一番すごいと思うのはやはり聖書を解く話です!
私は元々クリスチャンでしたので、聖書や教会に対する抵抗というのは全くありませんでした。
抵抗がないどころか教会は昔から好きでした。
御聖堂(おみどう:カトリックではチャペルのことをこう言います)の聖なる雰囲気や聖歌(讃美歌)の響きが好きだったのです。
その雰囲気に浸るだけで自分が清くなるような気分になれたから。(笑)
でも、熱心な信者ではありませんでした。
聖書については不可解だと思っていたからです。
パンが増える話とか、その他諸々の奇跡の話に対して、子供のころから何となく変だなという感覚を持っていたのです。
きっと聖書というのは神父様とかシスターとかそういう特別な人しか理解できないのだろうと思ってました。
ただ、教会にも仲が良い友達がいたし、そういう意味でも教会に行くこと自体は嫌いではありませんでした。
でも、やっぱり大人になるにつれてあまり教会にはいかなくなりました。聖なる雰囲気に浸るという目的だけだったら、もっと優先順位が高いものが出てきますからね。
それで、いつの間にかクリスマスや復活祭などのポイントだけしか行かなくなっていました。
でも自分の中ではこれくらいでちょうどいいと思ってました。あまり教会に行かない自分に何の罪悪感もなかったし、教会には気が向いたときに行けばいいと思ってたんですね。
そんな私が大学生の時に新しい御言葉に出会い、伝道されました。
私にとっては最初に聞いた「ペテロと魚」の講義が衝撃的で、目から鱗が落ちるとはまさにこのことだと思いました。
不可解なことを無理やり信じなくてよいのだという解放感もありましたし、私でも聖書を納得できるのだという自分自身に対する驚きもありました。
それで、急に火が付いたように熱心に聖書の講義を聞きに通いました。
聖書が解けるのが面白くて、もっと聖書を知りたいという衝動にかられたのです。
今思うと、カトリック時代の私は聖書が嫌いだったわけではなくて、わからなくて不可解だから遠ざけていただけだったんだなと思います。
だから教会は好きなのに行かない、という一見矛盾するような状況が続いていたんですね。
私はよく、元々クリスチャンだから聖書に詳しい、と思われているのですが決してそうではありません。
先生の聖書の話が面白くて深いから、聖書が好きになって聖書オタクになったんです。(笑)
私は伝道されてからすでに30年弱経ってますが、その間ずっと恵みばかり受けていたわけではありません。当然ながら嫌なこともたくさんありました。
なのに、なぜ出ていかなかったのかというと、理由はただ一つ。真理はここだけだと思ったから。
先生が聖書を解いてくださり、そこから派生して様々な問題を御言葉を通して解いてくださるのでそれを手放すのが嫌だったんですね。
なので、私にとっては先生の聖書の話は私の信仰の根幹になるものです。完全に私は真理派です。
他のいろんな聖書の解釈を見てみても、やっぱり先生の聖書の解釈以外に納得できるものはありません。そこはもう誰が何と言おうと譲れませんね。
悔しかったらもっとまともに解釈してみろ!って言いたい。(笑)
もし、先生の聖書の話以上に私を納得させるものが出てきたらその時はそっちに行くかもしれませんが、今のところその可能性は限りなくゼロに近いですね。
先生の凄いところは、同じ聖句でもバージョンアップすることです。つまり、より深い話になっていくということ。
だから何年経っても新しい発見があります。
これからも私は先生から真理を学びながら生きていくと思います。
そして、永遠に主の主管圏の中で生きていきたいと願っていますし、一人でも多くの人がこの真理に出会ったらいいなとも思ってます。
真理を学ぶ全ての人たちの上に、永遠に主の祝福がありますように💛