何事も効率化が叫ばれていますよね?
確かに仕事をする側から見れば、非効率なやり方よりは効率が良い方がストレスもたまらず良いに決まってます。
でも、いざ自分に「効率化」の恩恵が回ってくるときに、あえて躊躇してしまう場合ってありませんか?
例えば。。私の母のことなんですが。。
うちの両親は東北在住で、年取ってからは雪かきが大変だからと言って晩年に新築マンションを購入して引っ越したんですね。
その際、建築中の段階で購入したため、入居前にいろいろ間取り変更など可能だったらしいのです。
その時、台所の設計で、業者さんから食洗機の導入をかなり勧められたそうです。高齢者にはとても人気だからと。
でも母は「食器洗いくらいはちゃんとできるし苦にもなりませんから」と頑として譲らず、結局食洗機は導入しなかったのです。
でも、後になって母が癌になり、手術して約二か月入院。退院後もそれまで通りに家事ができなくなってからは「やっぱり食洗機を入れておけばよかったかな。。そうしたらお父さんにもできたのに。。」と言ってたんです。
たかが食洗機なんですが、専業主婦だった母にしてみてば、「食器洗いをサボるなんて。。」という思いだったみたいです。
つまり、食洗機は食器洗いをサボりたい人のためのもの、という認識だったという事です。
こういう類の事っていろいろあるんじゃないかと思うんですね。
効率化した方が自分が楽になるはずなのに、効率化することを「自分が手抜きをしている」「サボっている」という認識になってしまい、せっかくの恩恵を自らはねのけてしまうという事が。
特に日本人は精神性をとても大切にするので、それ自体は良いことだと思いますが、精神性を発揮する必要もないところで発揮してしまうと逆に害になってしまうなと。
食器洗いで言えば、食べるときに食器がきれいになっていれば良いわけです。どういう洗い方をしたかが問題ではなく。
機械を使って洗ったのか、一生懸命手で洗ったのかを気にする人なんているでしょうか?
少なくとも、食べる人は食器は清潔か否かしか見ません。どういう精神で洗ったのかなんて食べるときに気にしてません。
だから、文明の利器を使って楽をすることに罪悪感を感じる必要はないんじゃないのかな?と思います。
日本の社会に効率化がなかなか進まない理由がこういう所にもあるんじゃないのかなと思うのです。
効率良くやることが、頑張ってない自分、楽してズルいことをしている自分、と感じてしまう価値観。
こうして勝手に自分で自分の首を絞め続けて苦しくなることってありませんか?
これは既成の価値観がこびり付いて抜けないから起こることだと思うのです。
こういう非効率的な価値観を思い切って捨てることも、大胆になることの一つなんじゃないのかな?
考えてみれば、洗濯だって戦前は手洗いだったし、私が子供のころは二層式洗濯機が主流でした。
今、全自動洗濯機で洗った洗濯物に対して「手抜きの洗濯だ!」なんて言う人はいないでしょう。
既成概念からくる勝手な罪悪感から自分を解放することも大切ですね。