閲覧注意!!(少々毒舌です)
先に言っておきますが、今からお伝えすることは賛否両論あると思いますので、あくまでも私個人が思う事としてとらえてくだされば幸いです。
何となくここ数年、世の中の風潮に対して思っていること。
コロナ体制になってからもそうですが、世の中にはびこる「自称社会正義人」がああだこうだ言うことによって余計人々を混乱に陥れているんじゃないのかな?ということを常々思っているんです。
個人主義と言いながら、おせっかいも多いなと。
本当に個人主義なら他人がどうしようと黙ってたらいいのでは?と思うんですよね。。
もし、その行為が犯罪行為なら警察を動員し、司法で裁かれるべきだし、被害を被っているならその本人や関係者がしかるべき措置をとるべきだと思います。
なのに、何にも関係ない第三者が、ご意見番のようにああすべき、こうすべき、という事を言うじゃないですか。
当然、一般論としてそういうことを言ってるわけですが。
一般論としては間違ってないですよ。私自身も正義感が強いので正義の味方は好きです。
でも、それは正義の味方として本当に困っている人を助けるならすごくかっこいいという事であって、ただああだこうだ言って正義を振りかざしてるだけなら黙ってほしいな、なんて思ってしまいます。
もしかしたら当事者しかわからない事情があるかもしれないし、きちんとした調査結果を入手しているわけでもないのにあれこれ言うのは無責任なんじゃないのかな?と。
そうやって、自分は正しい人間である、という事を主張したいのかもしれないけれど、結局は人を攻撃しているんですよね。
もっと言うと、そうやって声高に正義を叫ぶ人によって、暗黙のうちに恐怖政治みたいな風潮を作っているんじゃないのかな?と思うのです。
一般的な正義の定義から外れたことをすると攻撃される、という暗黙の恐怖。
それが人の心を知らないうちにむしばんでいるような気がしてならないのです。
昭和が良いというわけじゃないですけど、これに関しては昔の方が大らかだったな、なんて思ってしまいます。
今はちょっとした失言で大々的に叩かれてしまいますからね。
叩く方は目的があって意図的に叩いているのは明らかですけど、それを見ている人々の心理には大いに影響があると思っています。
でも最近は失言で人を叩くのも見飽きてきたし、私個人としてはむしろ不快です。
あんたは今まで一度も言葉の間違いをしたことがないのか?!と言いたくなりますね。(^^;
で、ですね。
これが世の中だけならまだ仕方ない面もあると思うのですが、多少なりとも教会の中にもこういう風潮があるような気がするのです。
基本的には御言葉通りにするのがベストです。
でも、本人の事情によっては考慮すべきことがあるのも事実です。
だからと言って堕落していいとか、それはないですよ。
どうしても時間が守れないとか、出席できないとか、あまり献金できないとか、そういう事情がある場合ってあるじゃないですか?
あくまでもこれらは一例ですけど。
何が言いたいかというと、自分の行為に対して一々「これをすると○○と言われるんじゃないか」という事を気にしていること自体が信仰からズレてるんじゃないかな?という事です。
本来、信仰は自分と神様。人の評価じゃないです。
例えば「人を悪く言ってはいけない」ということが絶対正義としてまかり通ってます。
勿論悪口はいけませんよ。気に入らないとか、何となく好きじゃないとか、自分の心情に合わないとか。そういう事で相手を批判するのは良くないと思います。
でも、もし自分自身の救いに影響が及ぶほど何か良くないことがある場合、それも「人を悪く言ってはいけない」という定義に引っかかって何もできない、というならどうでしょう?
神様はそうやって我慢したまま自分の信仰が落ちていくことを喜ぶでしょうか?
本当の意味での個人主義は、自分と神様の関係をしっかり築いて、その関係を中心に生きていくことじゃないかと思うのです。
指導者がついてくる人に言う言葉も気を付けなければいけないし、逆に、ついて行く人が指導者に対して何でも指摘していいというわけでもないと思います。
ありきたりですが、お互いに神様を愛する愛の関係の中で処理すべきことと思います。
私自身は、自分の言葉で相手を傷つけた経験もあるのでそれについては悔い改めるばかりですが、逆に、こっちが全く意図しないことを陰で言われて大いに傷ついたこともあります。
ただ声高に正義を振りかざしている人の影響で、(ちょっと言い過ぎかもしれませんが)正義が暗黙のうちに人を攻撃する手段となってるのでは?という事です。
正義までがサタンに利用されてるんじゃないのかな?と
正義は言葉ではなく行いで示さないとね。
とにかく、正義を使った恐怖社会はそろそろ終わりにしないといけないんじゃないのかな?と思う今日この頃です。