今週は先生が真理について話してくださっていますね。
自分で言うのもなんですが、私は完全に真理派で、長年ここにいるのは真理のためだと断言できます。
恵み深いからとか、兄弟愛が素晴らしいからとか皆さんいろんな理由があると思うのですが、私の場合は完全にこの真理にノックアウトされたのです。
極端な話、真理以外の事には躓くことも結構ありましたよ(苦笑)。でもなぜ出て行かなかったかというと真理を手放したくなかったから。それに尽きます。
私の場合は元々カトリック教徒でしたから、教会や聖書というものがここで初体験というわけではありませんでした。
だからこそ、初めて行った日はそこが教会と言われてもピンとこなかったほどです。(ちなみに、初めて行ったのは当時板橋にあった教会です。)
教会というのはカトリックの教会のようなものしか想定できなかったので、初めて行ったときはそこが事務所か何かかと思ったほどでした。
しかも、歌がちょっと。。。当時は替え歌でしたから。。(^^;
特に、元歌を知っている歌に関しては(特に演歌)は完全に拒否反応しかありませんでした。
だから、最初から何もかも受け入れられていたわけではありませんでした。
でも、初めて行った日に学んだ「ペテロと魚」が私には強烈すぎて、もっとここで聖書を学びたい衝動が止められなかったのです。
初めて聖書を学ぶ人にとっては比喩を解いたからと言って何も感動しないんですよね?(そう聞きました。)
むしろ、そんなの当たり前でしょ?とか、そのまま信じる人なんているの?というのが本音なのだと思います。まぁ、そうですよね。。(^^;
でも、私にとってはものすごく衝撃でした。
それまで私にとって聖書というのは得体の知れないものだったからです。
詳しく読んでいたわけではありませんが(というか、むしろほとんど読んでいませんでしたが)、有名どころはなぜか知っていたんですね。
聖書って、普通に不思議な話が書いてあるじゃないですか?そのまま呑み込むには不思議すぎます。
それでなんとなく得体が知れないという印象を持っていたのだと思います。
きっと、聖書というのはシスターとか神父様とか、浮世離れした聖職者だけが信じられるものなのだろうと自分の中でそう納得してました。
ですから、「ペテロと魚」を学んだ時には、まさしく目からうろこが落ちた思いだったのです!
これなら、この私でも信じることができる!信じるために無理しなくていいのだ、という安心感が沸き起こってきました。
非現実的なことを(又はあり得ない事を)信じるのが信仰だという概念が覆された瞬間でした。
それで、もっともっと聖書の真実を知りたくなり、それに対する好奇心が止められずに一気に聞いてしまいました。その後ほぼ毎日聞きに来て、約三週間で修了!(笑)
聖書の真理はここでしか学べない。。。その思いが今までずっと私をここに居続けさせてきました。
それは今も同じです。
誰かに説得されたり脅されたりして居続けてるのではありません。自分で聞いて自分が納得して他に行こうと思わないから行かないだけです。
まさしく、この聖句の心情です。
『彼らは女に言った、「わたしたちが信じるのは、もうあなたが話してくれたからではない。自分自身で親しく聞いて、この人こそまことに世の救主であることが、わかったからである」。』(ヨハネ4:42)
(↑サマリヤの女が村人にイエス様を言い広めた後の話)
聖書の真理をハッキリ学ぶことで、私の神様に対する思いや信仰はカトリックの時とは比べ物にならないくらい強くなりました。
人生の中で、真理に出会えたことが私にとっての最大の感謝です💛
こんにちは。クララさんのブログとても励みになります。誰とも話さないと…を声を出して読みました。このページも声を出して!今は一人暮らしなので、声を出さない日があります。
2012年までむさしのきょうかいにいた、
三宅浩文の母です。最初に連れて行かれたのが、クララさんのコンサートでした。
また楽しみに読ませて頂きます。
コメントありがとうございます!
励みにしてくださっているなんてとても嬉しいです!
浩文君のお母様でいらっしゃるのですね。
コンサートがきっかけで伝道されたというのも嬉しいですし縁を感じますね。
今後とも宜しくお願いします。(^^)