今朝になってから急に思い出したのですが、昨日(11/20)は母の誕生日でした。
母が生きていた時は毎年プレゼントを贈ってました。
私がまだ信仰的に幼かったころ先生が「親の誕生日とか父母の日とかにはプレゼントくらい贈るものだ」とおっしゃったのがきっかけで毎年贈っていたんです。
牧会していた時も、母の日、父の日、両親の誕生日は忘れずに贈ってました。だから毎年11月に入ると「あ~、今月は母の誕生日があるな。今年は何を送ろうかな。」と、ちょっとだけそわそわした気分になっていました。
母はあまり物欲がない人でモノを増やすのも好きじゃない人だったので、途中からモノを贈るのはやめて、母の好きな紅茶を贈ったり、私がピアノを弾いて録音したものを贈ったりしていました。それはものすごく喜んでくれました。
プレゼントを贈ることに関しては、母よりも難しいのが父。父が何を喜ぶかなんて娘の私には良くわからないんですよね~。だからよく、母に電話してリサーチしたりしていました。
でも結局、ハンカチとか、帽子とか、無難なものが多かったかな~。
ちなみに、私の父は頭が禿げているので帽子は必需品だったんですよ(笑)。真面目な話、禿げてる人にとっては帽子がないと本当に生き辛いらしいんです。夏は直射日光が当たって辛いし、冬は寒さが直撃するしで。なので、父は外出するときは服を着るように帽子をかぶっています。
そういうわけで、父には今まで冬用、夏用、おしゃれ用など何種類も帽子をプレゼントしました(笑)。
今考えると、そういう時間も楽しい時間だったな~と思います。
今は母は他界してプレゼントすることもなくなったし、父は認知症で時間の感覚が滅茶苦茶になっちゃったのでしてません。
一度父の誕生日にわざわざ福島県の施設に出向いてプレゼントを渡しに行ったのですが、その時父に「今日は何の日だか分かる?」と聞いたら「わからない」と言うんです。それで今日が何月何日かを聞いてみたら全然違う頓珍漢な答えをしていました。
それ以来、誕生日や父の日に合わせてプレゼントを贈ることはやめてしまいました。正直、ちょっとがっかりしちゃったんですよ。そういうのって、その日を心待ちにしていてくれるからこそ贈る甲斐があるじゃないですか。
だから最近思うんです。自分が誰かのためにすることがあり、相手もそれを楽しみにしていてくれるという状況があるのはとても祝福されたことだな~と。
誰かのためにすることがあるから面倒だし大変なこともあるかもしれないけれど、そうすることで自分も相手もハッピーになるんだったらやっぱり祝福です。
最近は親にプレゼントを買うこともなくなったのでちょっと寂しい感じもしますね。今考えるとこれも祝福された愛のやり取りだったんだな~と思います。
親にプレゼントを贈るのはタイムリミットがあります。悲しいけれど現実的に、いつか終わってしまいます。親だけじゃなくて、世の中の物事は全て永遠じゃなくてタイムリミットがあります。
誰かに何かをできるのも今のうち。自分自身も年を取っていくからいつかできなくなるかもしれません。
神様に対して、主に対しても今しかできないことがあります。
だからこそ、今、何事も出し惜しみせずに、天に対しても地に対しても思う存分愛を分かち合う行いをしていきたいですね。