「話せばわかる」「誠意は伝わる」
よく言われる言葉だけれど、残念ながら私はこれを鵜呑みにはしていません。(すみません、爆弾発言で。。)
いくら話しても分からない人がいるし、全く誠意が伝わらない人もいるというのを見て体験してしまったから。
人は固定観念がある状態では何を話してもその固定観念のフィルターを通してしか入らないのでちゃんと伝わりません。
だからその固定観念がなくならない限りいくら話しても無駄です。
固定観念というのも、今まで自分が見聞きしてきたことや体験してきたことに基づいていることがほとんどなのでそう簡単には崩せないと思います。
だから他人が何か一言二言助言したからと言ってそう簡単には人の観念は変わりません。
多分、自分が何か言われた時の事を考えたらわかると思います。
私自身、自分が良いと思ってることをいきなり理論的に否定されたってそう簡単には考えを変えたりはできません。そういうものでしょ。
そこには理論だけじゃなくて、感情も入っていると思います。
人は感情的に頑なになっていたら何を言っても入りません。それを理屈で強く説得しようとしても余計にこじれるだけだと思います。
話して分かるのは、自分の固定観念や思い込みは一度おいて相手の話を聞いてみよう、と本人が自ら思うとき。
誠意が伝わるのも、相手が自分を肯定的に見ている時だけ。
極端な言い方をすれば、いくらこちらが良いことをしてあげても、相手が自分を悪人だと思い込んでいれば誠意が伝わらないばかりではなく、かえって裏があるようにしか受け取られません。
じゃあ、話しても誠意を示しても全く意味がないのか?と言うとそういうことではありません。伝わる人はいるのです。
ちゃんと話せばわかる人、誠意が伝わる人はいます。でも全員じゃないという事です。
だから、分かる人に分かればいい、伝わる人に伝わればいい、と思えばよいと思うのです。 人がどう評価しようと天は見ているから。責任分担として自分がすべきことをすればいいと思うのです。
「話せばみんな分かってくれるはず」「誠意は必ず伝わるはず」と思っているとそうじゃない現実を見た時に失望したりストレスがたまったりします。
特に世の中よりはむしろ教会内のことでそういう悩みがあるんじゃないかと思うんですよね。みんな御言葉を学んでいるのだから分かってくれるはず、と思いたいじゃないですか。その気持ちはよくわかります。
でもそれで信仰がなくなってしまった人がいるのも事実です。
私が来たばかりのころはまだ人数も少なくて年齢的にも信仰歴的にもみんな似たり寄ったりだったからそこまでズレというのはなかったですが、今は人数も増えていろんな意味で様々な人がいます。だからズレるのは仕方ないことです。人々の「過程」がバラバラだから。
信仰を持つと、みんなが天使のようになってくれると思いたいところですが、現実的に考えると、時にはこうした「割り切った考え」も必要だと思います。
そうじゃないと、その「分かってくれるはず」という固定観念に自分自身がやられてしまいます。
これもサタンの罠じゃないかと思うんですよね。そこから疑いが生じますからね。
私達は神様じゃないのです。御言葉が肉体となった方はメシヤだけ。私たちは御言葉を学んでそれを目指してはいるけれどまだそこまでじゃないから。
そう考えて、教会内のストレスからうまく自分を解放させてあげながら信仰生活を送れると良いなと思います。