ヨシュア記の内容を考えながら何となく思ったこと。
モーセの時にエジプトからカナンへ行くという指令が神様から出されましたが、その時はみんな喜びました。
ところが、行く道に艱難苦難が多くてだんだん行く気が失せてきただけでななく、カナンの地を探ったところ自分達より大きな民族がいたり高度な武器を持っていたりすることがわかり、ますます口から文句ばかりが出るようになりました。
わざわざこんな思いをしてまでカナンに行かなければいけなのか?と。
それでも神様は目的地に関して妥協することはしませんでした。
むしろ、文句を言う人は行かせませんでした。
それでモーセの時はシン荒野で終わり、次世代のヨシュアでカナンに入ったわけです。
この時、神様が、みんなに負担をかけてはいけないからと「行けるところまででいいよ。無理しないでね。」という風に言ったのならどうなったのかな?と思いました。
そういう風に言われたら、ヨシュアでも「それなら無理してまで行く必要はないな。ここまででいいや。」となったんじゃないのかな?と。
たとえ元々の性格が大胆だったとしても、無理しなくていいと言われたら危険を冒してまで行かないと思うのです。
なんとなく、イマドキの風潮は、無理させたらよくない、負担をかけたらいけない、というのが主流ですよね?
その時その時の感情が優先される風潮です。
それを優先してあげないと場合によっては訴えられたりもしますからね。。。(^^;
でも、全ての物事を無理なく、負担なく、でやっていたら自分の次元を突破するのは難しいのかもしれないと思いました。
時には明確な目的地が示され、何があってもそこに到達しなければいけないという課題があるからこそ、大胆になって自分を突破できることもあるんじゃないのかな?と思いました。
モノにもよりますが、人の意見や感情に左右されると、大胆さは発揮されないような気がします。
人間が示す無理難題は徒労に終わることもあり得ますが、神様が人間に出した課題は艱難が多くても必ず助けてくださるし、私たちには達成感もあり、何より救いになります。
だからこそ、神様は明確に基準を示してくださるし、それに関しては絶対に妥協しないのだなと思いました。
こちらの感情に忖度する神様ではないという事です。
人間的には、神様なんだから辛さをわかってほしいと思うかもしれないけれど、最終的に何が親切で愛なのか、人間がきちんと悟らないといけませんね。