神様は人間に五感というものを備えてくださいました。そしてそれを通していろいろ感じるようにしてくださいました。
信仰の世界にいると、いわゆる第六感の方、つまり霊的な事に興味関心が行くと思うんです。でも、ふと、それ以前にすでに肉体に備わっている五感を使うことが大事なんじゃないかな~と思ったんですね。それをきちんと使わないのは備わった機能をちゃんと使わない事じゃないかな?と。
五感は「視覚」「聴覚」「臭覚」「触覚」「味覚」の五つ。特に霊的じゃなくても感じることが可能です。
でも、そんなものはすでに使って生きてますよ、という声が聞こえてきそうですね。(笑) 実際五感を使わずには生きていけませんからね。
ここで言いたいのは、もっと研ぎ澄ましてみては?ということです。
よく見る、耳を澄ます、香りを感じる、触れた感覚を味わう、味を感じることなど。
忙しいと、食事も「おいしい」「おいしくない」の区別くらいはするけれど、細かい味の違いなんかはどうでもよくなってしまったり、急いで一目散に歩いていると周囲のものが目に入らなかったりなどなど、大雑把には五感を使ってるけど細かくは使ってないんじゃないでしょうか?
そういえば・・・私の母は、服を買う時には必ず触って布の柔らかさとか厚みとか丈夫さ、仕立ての良さなどを必ずチェックしてました。通販だとそれはできませんよね。(笑)
昔の人は、天気予報や花粉情報などがなくても空模様や湿気の具合で判断したり、動物の動きで地震などの異変を察知したりしていたわけですよね。
私は天気予報は必ずチェックする人ですが、その割には景色とか雲の動きとかは見てないんです。ある時そのことに気付きました。雲の流れをチェックしたり、風の吹く方向などを感じれば今日は傘を持って行った方が良いとか判断できそうなものですが、予報にはなかった雨が降るといつも「天気予報が外れた」と悔しく思うわけです。
今は何でも情報で判断したり時短で事を済ませられるから便利だけれど、反面自分の五感が使われてないような気がします。逆に言うと、そこまで自分の五感を使わなくても生きていけるシステムになってきているように思います。
だから「感じる」ことに対して疎くなっているのかもしれません。よく考えたら無関心、無感動、無感覚な人生は無機質でつまらないですよね。
また、万物啓示は五感を使って受ける啓示です。同じものを見聞きしても感じる人と感じない人、啓示を受ける人とそうでない人がいるわけです。そう考えると、五感を研ぎ澄ますことは霊的になる第一歩なんじゃないのかな?とも思います。
改めて、神様がすでに私たちに備えて下さっているものを使いこなしてみることに意識を向けるのもいいのでは?