また新しい一週間が始まりました!
主日の説教でも新しいメッセージが宣布されましたね。
今回は、その説教中に私がちょっと「あれ?」と思ったことを書こうと思います。
あらかじめ断っておきますが、今からお伝えすることはあくまでも私個人の感じ方であって、多分そうは思わないという方もいらっしゃるだろうという事は承知しています。
正直書こうかどうか迷ったのですが、でも、ちょっと勇気をもって伝えてみよう思い、書くことにしました。
説教の核心ではないことなのですが。。。
昨日の礼拝で、先生が説教中、昔は厳しく克己訓練をしていたという話をなさっていましたよね?その後で先生が「今は大目に見ているけど。新婦の時代だから。」とおっしゃった後、拍手が沸き起こりました。
その拍手にびっくりしたというか、正直ちょっと引いてしまいました。
そこ、拍手するところなの?と。
多分、私のような昭和の人間で、かつ草創期のスパルタ教育を受けた人なら「大目に見てるけど。。」と言われたなら、拍手じゃなくて「先生、そんなこと言わないで私達も訓練してください!」という風になるだろうな~と思ったんです。
それで改めてゼネレーションギャップというものを認識しました。
今は、訓練されて自分が強くなる事よりも、大目に見てもらうことが嬉しいのだな~と。これも時代性なのかな?
ただ、私が今週の説教全体から感じたことは、天のもどかしさでした。
ピリポがエチオピア人の宦官に聖書の預言の謎を解き明かして伝道したように、私達にもそのような働きをしてほしくて話されたことだと思ったんですね。
逆に言うと、私達がまだまだそういう働きに至っていないから話したんじゃないのかな~と。
ピリポが伝道したエチオピア人の宦官は、聖書によると女王の財宝全部を管理するという官職についている人でした。今の日本で言えば財務省の官僚に当たるんじゃないのかなと。
ピリポがそういう人を馬車に乗りながら伝道してしまったんです!すごい話ですよね?
そういうピリポの話をしている中で「今は大目に見てるけど」と言った後拍手が沸き起こるのはどうなんだろう??これで良いのかな?と思ってしまいました。先生はどんな心境なのかな?とか。
まぁ、先生は私とは次元が違ってるから今更一々そんなこと気にも止めないのかもしれませんね。
あくまでもこれは良し悪しの問題ではなく、私が個人的に感じた違和感です。
ただ、御言葉というのは神様から私達へのメッセージなので、天の立場から見ないと誤解が生じてしまいます。
大事なことは天の御心をこの地に成すことです。
そしてその「成され方」は私たち次第だという事です。
大目に見てもらっても訓練を受けても、どちらにしろ、自分が成し遂げた分だけの祝福を受けます。
そのことがブレないように信仰生活を送っていきたいですね。