最近の風潮でよく思う事。
多分、TVの影響が大きいとは思うんですが、現代社会ではちょっとした失言を大きく指摘してギャーギャー騒ぎ立てて発言者を悪人に仕立て上げるということがよくありますよね?
そういうのを見ていると、中には本当に失礼にあたる言い方だった場合もありますが、正直微妙だなと思うようなものもあります。
勿論、悪口や誹謗中傷、明らかな蔑視用語などは絶対いけませんし、なくさないといけないことです。
でも、それはそういう意図で言ったのではないのでは?と思うようなものまで細かく細かくわざわざ疑問視して指摘するんですよね。
「相手に対する思いやり」という大義名分の下で「この言い方はどうなのか?」と疑問を呈することが正義みたいになってます。
正義みたいになってるから、ちょっと違和感があったとしてもそれに反論することがためらわれて、何となく「正義」に同調せざるを得ないというのが正直な所じゃないですか?
昭和の時代にはほとんど気にする人がいなかった言葉や言い方でも今は目くじら立てて指摘されるものも多いです。
でも、これって本当に「相手に対する思いやり」なのかな。。。
一見、細かく言い回しに気を使うことが「思いやり社会」のようにも思いますが、一方で違和感も拭えません。
そして、変に「こういう風にも受け取れる」という考え方が広まることによって、今までそう言われても平気だった人が「それはそういう意味もあったのか」となり、かえって傷つき心が病んでいくという現象もあるように思います。
現代人に傷つきやすい人が多いのはこういうことも影響しているんじゃないかと思うのです。
それで、結果としては、思いやりの心が広がるよりは、あちこちに気を使いまくる風潮がもっと強くなってストレスも溜まりやすい世の中になってるような気がします。
「失言リスト」が増えることによって、気軽に使える言葉を厳選せざるを得なくなってるからです。
厳選してる時点で気軽じゃないですね。(^^;
もはや思いやりではなく、他人から指摘されないための自己防衛的な意味合いになってる気がします。
何でも昔が良かったとは思いませんが、人間同士のやり取りでは昔の方が大らかだったように思います。
多少口から出てきた言葉が不適切でも、相手がどういう心で言ったかを重視していた時代。
相手の意図や心情をくみ取ろうとせず、表面的に言葉尻を捕らえて指摘することは2000年前にイエス様の揚げ足取りをしたユダヤ人達と変わりがありません。
「相手に対する思いやり」という大義名分の下で指摘しまくった結果、思いやりよりは指摘体質の世の中になってしまった気がして残念です。
指摘する前に、言葉を発した人の意図や心をくみ取ろうとすることも思いやりなんじゃないのかな。。