聖書を見ると、イエス様が病気の人を癒した場面がたくさん出てきます。
そこでいつも共通しているのが『あなたの信仰通りになるように』など、癒しを受ける側の信仰について言及されていることです。
また、4人がかりで中風患者を運んで屋根から吊り下ろしてきた場面では、中風患者本人ではなく運んできた「彼らの信仰を見て」癒してくださいました。(マルコ2:5)
他にも、自分の娘や部下を癒してほしくてイエス様のところに懇願してきた人たちの信仰を見て、イエス様が癒しを宣布し、その人の娘や部下が癒されたという話もあります。
癒しが必要な本人はそこにはいませんでした。しかし、懇願してきた人の信仰を見て癒してくださったのです。
つまり、信仰の力は自分だけではなく、他者にまで影響力を発揮するということですね。
癒しだけではありません。
信仰の父と呼ばれるアブラハムは、神様の言葉を信じて見知らぬ土地へ移動しました。
移動すると言っても隣町とか、行ったことがある場所とか、そういう所ではなく全く見知らぬ土地で、かつかなり遠い場所でした。
今のようにネットで下調べなんてできませんからね。全く見当もつかない場所へ、ただ神様がおっしゃったことを信じて移動したのです。
今のような地図もなかったでしょうから、きっと距離感も所要時間もわからないまま出発したと思うのです。
現実的に考えてかなり大胆であり、かつすごい行動力です。
ヨシュアもそうです。神様に教えてもらった方法でエリコを陥落させ、カナンの地に入っていきました。
途中で疑って文句ばかり言っていた人々はシン荒野で終わりました。
こうしてみてみると、神様さえいれば全てが解決なのではなく、それを受ける側がどう反応するかが大事だという事が分かります。
癒されるはずだと信じた結果、癒しを受け取ったことであり、神様の仰った通りになると信じたから言われた通りに行動し、祝福を得られたのです。
御言葉を受けた後「そんなことあるわけない。」と言って全く信じなかったら祝福はないでしょうし、癒されるわけがないと思ってるなら癒されないでしょう。
一見、理屈を並べて疑う人の方が優秀に見えますが、単純に考えて、疑って滅びるより信じて癒された方が良いし、信じて行なって功績を残した方が良いに決まってます。
だから「信じる」というのも能力の一つなんじゃないのかな?と思いました。
信じることは誰かに強制されてはできません。
表面的に信じているふりをすることはできても、本当に信じるのは自分の中から生じることです。
だから素直に心から信じられるというのはそれだけで物凄い祝福だし、能力者になる可能性を秘めていることだなと思いました。
たとえ肉的な力は発揮されなくても、信じることで心の平安があるだけでもストレスの多い現代社会においては大きな祝福ですね。
こんな混沌とした現代だからこそ、信仰の力が大事なのかもしれません。
とにかく、自分自身に信じられる感動を与えて下さった神様に感謝💛です!