最近ニュースを賑わせてる「桜を見る会」の話題ですが。。。それ自体には何も言及するつもりはないのですが、その関連で三原じゅん子さんのお母様の事がメディアで取り上げられ、じゅん子さんが侮辱発言されたと抗議しているという記事を見ました。
私が注目したのは、その記事に対するコメント。大抵バッシングのコメントなんですが、ほとんどじゅん子さんが芸能人の時のイメージで言ってるような感じだったんです。
少し前の内閣改造の時も、三原じゅん子さんが閣僚入りするかも、というニュースが流れた時もコメント欄は大バッシングの嵐。
あんな人を入れたら日本は終わりだとか、人気取りのために芸能人を入れるなんて、とか。
何を根拠に「あんな人」というレッテルを貼っているのでしょうか?あんな人と書き込んだ人は彼女と会って話したことがあるんでしょうか?
また、今は芸能活動はしておらず、議員に専念して久しいのに未だに「芸能人」と侮蔑を込めて言われてしまうのはどうなんでしょうか?
私は元々三原順子さんのファンでも何でもないんですけど、国会で三原じゅん子さんが発言したり問題提起をしたりしているのをYouTubeで何度か見たことがあります。
それを見る限り、今のじゅん子さんは芸能人だった時の「三原順子」とは大違いで、よく勉強されていて、その辺のおじさん代議士よりよっぽど頑張っているという印象でした。
良く調べてみると、じゅん子さんはご自身が癌を患った経験がきっかけで福祉関係の問題に真剣に取り組み始め、それが元で議員になったようです。自分自身が痛みを経験したからこその決断です。
また、今のようにネットが普及する前から、日本のマスコミはおかしいと発言したり、弱者に対する侮辱発言に毅然と対応したりなど、頼もしい一面を見せていました。
でも、バッシングしている人たちはそのような現在の働きを無視するかのように、正に金八先生時代の不良役のイメージで発言しているんですね。
そういうのを見て、他人事ながら悲しい気持ちになりました。
恐らく「どうせ自民党の客寄せパンダの役割なんだろう」くらいにしか思ってないようなのです。芸能人を使って人気を取ろうという策戦だと。または、彼女が芸能人で認知度が高かったから議員になれただけとか。
誰にどんなイメージを持とうと人の自由ではありますが、それで人を判断するのは違うと思います。
自分がそうされたら悲しいですよね?今自分が頑張っていることは何も知らないくせにただのイメージで判断されたら嫌じゃないですか?
だから私達の中でもそういう事がないか、注意しないといけないと思うのです。
人を自分のイメージで決めつけてはいないのか。
一人一人が日々それぞれの経験を重ねて、また様々な思いを抱いて歳を重ねていきます。
私自身の事を考えても、10年前の私と現在の私とでは考えていることもやっていることも全然違います。この10年の間に、それまではしなかった体験をし、それまでは考えなかったことを考えるようになったからです。
人は変化するし、自分も以前の自分とは違います。
今現在頑張っている人を、過去のイメージでバッシングするのは絶対にしてはいけない事です。
人の頑張りを認め、敬意を払うことも愛の表現の一つなんじゃないのかな?
ただ『愛してます』というのではなく、お互いに頑張りを認め合い、尊重し合うことで愛の世界が広がっていくような気がします。
人をバッシングする世界は間違いなく愛のない世界。そこはただ虚しく、悲しいだけの世界です。
みんなで愛のある世界を作っていきたいですね。