先日、何気ないことだけれども個人的に感慨深いことがありました。
あるSNSの、私の個人アカウントにダイレクトメールが届いたのです。内容は私の安否を気遣う連絡。
それも非メンバーから。
最近はダイレクトメールって何かの勧誘であることが多いからほとんど見てなかったのですが、その時はなぜかすぐに気付いたんですよね。
その連絡をくれた人とは会ったこともないし、そもそも私が個人アカウントの方は適当に運営していたから濃密にやり取りしていたわけでもないのです。
でも、私が何か発信するとすぐに反応をくれる人でした。
恐らく、年代が同じくらいなのかな?と思います。もちろん女性です。
その女性が、一か月近く放置していたら「お元気ですか?」と連絡をくれたのです。
それで私が「元気ですよ。」と返信したら、「お元気でよかったです。最近何もないから心配していました。」とまた返信をくれました。
こんな感じの、何でもないやり取りだったのですが、とても感動しました。
普段会っている人でもなく、SNS上の人で、かつそこまで頻繁にやり取りしていたわけでもないのに。。。
それで思ったんですね。本来、管理ってこういうものだよな~と。
使命だから、とか、自分の管轄下だから、とかじゃなくて、何となく相手が気になり、心配になって連絡をする。。
これって自然なことですよね?
しかも、内容はただ安否を気遣うだけ。特に利害関係はありません。
私は、このシンプルなやり取りに、かえって愛を感じました。
何というか、教会内の管理を見ていると(すべてがそうではありませんが)、「あの子はうちのチームじゃないから」とか「私が連絡して良いのかわからないから」などの理由で、分かっていたのに放置した、というパターンを何度も耳にしたことがあったのです。
そういう話を聞くたびにもどかしいなと思ってました。
管理ってそういうものじゃないでしょ?と。
本当に相手の救いを考えるならそうはしないでしょ?と言いたくなります。
逆に、使命感だけで過剰に干渉したりするのも考え物です。
何となく教会内で、ああすべき、こうすべき、と思っていることって、実は成文化された法があるわけではなく、言い伝え的な感じのものがほとんどです。
それを律義に守り通すことが正義になったらいけないんじゃないのかな?と思うのです。
何が言いたいかというと、教会が暗黙の約束事に囚われ過ぎているんじゃないのかな?という事。
聖書を読むと、イエス様もパリサイ人たちに「あなたたちは律法よりも自分たちの言い伝えを大事にしている」と指摘をされていました。
今、私たちが同じようなことをしたら良くないですよね?
管理というのは命の救いにならなければ意味がありません。
管理で一番大事なことは、ありきたりではありますが、愛です。
愛とは、ああすべき、こうすべき、という事を実行することではなく、自然と相手を思う気持ちから出てくる言葉や行いだと思うのです。
それが安否を気遣う事だったり、ねぎらいの言葉をかけることだったり。。。決して難しいことではなくシンプルなことなんじゃないでしょうか?
だから、もっと自然にできることだと思うのです。
今回は、神様が世の中の人を通して、管理の本質を示してくださった気がします。
これを機に、管理について、私も改めて考えてみたいと思った次第です。