昨日、礼拝後は特に予定がなかったので、久しぶりに未香さんと食事しながら、結構長い時間雑談してました。(笑)
考えてみたら、未香さんとは一緒に使命をやっている関係で、しょっちゅう連絡は取りあっているし、撮影の度に会っているのですが、話す内容ややり取りは主に使命に関することで、雑談というのはあまりなかったな~と思いました。
制限時間などはなかったので時間を気にすることなくあれこれ話して、気分もスッキリしたし、結果的にはいろいろ考えも整理されて良い時間でした!
以前ポンソク牧師がおっしゃっていたことですが、あるメンバーと面談した時、その人は「教会には一緒にお茶する人がいない」といって嘆いていたそうなんです。
その人曰く、教会の人はしょっちゅう会っていても、話す内容は使命や救いの話ばかりで、またそれ以外の話もしずらく、心の内を気軽に話せる人がいない、と言うようなことを言っていたそうです。
実はこれは大問題だ、と。
私達は目の前の事や自分の使命・救いのために毎日忙しくしています。だからそれだけやるのが精一杯、という状況も理解できます。
また、まじめすぎてしまって、使命や救い以外の話をすると罪になると考えたり、そういうのは時間の無駄だと考える人もいるかもしれません。
でも、考えてみたら、日ごろから愛とか心情とかを御言葉で学んでいるにもかかわらず、メンバー同士、お互いの心情を理解していない、というのは矛盾ですよね。
新入生とは意識して対話するけれど実はメンバーとはしていない、という事は残念ながらよくあることだと思います。
「伝道も大事だけど管理も大事」ということは言われることです。
でも、管理というのは本来、管理者という使命をもらった人だけがかしこまって形式的にするものじゃないと思うんですよね。
だから、管理とは言うけれど、実際にやっていることは出席チェックとか予定チェックとかそういうことばかりするのかな~と。
管理者が一番把握しないといけないのは、メンバー一人一人がどういう思いで走っているか、という事です。辛いかどうかだけではなく、辛くはなくても違和感がないかとか、しっくりこないことはないかとか。
また、楽しんでいるならば何が楽しいのかも把握しておくことが大事です。
それぞれの心の内が転々バラバラならまとまるはずがありませんし、何をやってもうまくいかないのは当然です。
だからそれぞれの思いを把握する必要があるのですが、その為には、シンプルですが日ごろから気楽に対話できる雰囲気を作るのが一番だと思います。
わざわざ「対話の時間を設けよう!」という企画が各地であるのは知っていますが、果たしてそれで対話が弾むのかな?と正直思うわけです。(すみません。あくまで個人的な意見です。けなしているわけじゃなくて素朴な疑問です。)
というのは、私だったらかしこまって「対話の時間」というのが設けられてしまったら「対話しないといけないけど、何を対話したらいいのかな?」と考えてしまってかえってストレスになる思うから。
それよりも、普段から何でも話せる雰囲気を作っておくことが大事だと思うんですね。
話せない理由の一つに「話しにくい雰囲気」というのがあるからです。
皆さん、基本的に御言葉を学んで性格が磨かれてますから、困ったメンバーがいたら助けてあげようという心は持っているでしょう。でも逆に、困ったように見えなければ放置しても良い、という事ではないと思うんですね。
先生の好きな聖句の一つがこれです。
「先生、律法の中で、どのいましめがいちばん大切なのですか」。イエスは言われた、「『心をつくし、精神をつくし、思いをつくして、主なるあなたの神を愛せよ』。これがいちばん大切な、第一のいましめである。 第二もこれと同様である、『自分を愛するようにあなたの隣り人を愛せよ』。これらの二つのいましめに、律法全体と預言者とが、かかっている」。 (マタイ22:36~40)
これを要約すると、心と思いと命を尽くして、神様を愛し、また隣人を愛しなさい、という事です。
神様を愛するだけでは不完全です。神様と隣人、つまり兄弟姉妹も愛して100%になるのです。
愛は関心だとも言います。お互いの心情を分かっていなくても気にならないのは関心がないから、つまり愛がないからだともいえるという事です。
なんか、大袈裟な話になっちゃいましたけど(笑)、要は、時には気楽にお茶でもしながらお互いの心を共有することもとても大切なことですよ、という事です。
これが結果的にお互いに管理することになりますから。
普段からメンバーに気軽に声をかける、というだけでも良いと思うのです。気楽な対話は「対話をするぞ!」と決心してするものじゃないですよね?大抵は、なんとなく声を掛けたら話が始まり、対話が弾んだ、と言う感じじゃないですか?
自然な形で神様も兄弟姉妹も愛して楽しい信仰生活を送りたいですね!