皆さん、霊の賜物と聞くとどんなものをイメージしますか?
恐らく、幻を見るとか、夢で啓示を受けるとか、異言を解くとか、そんな感じの事をイメージするのではないかと思います。
私もそうだったんですね。それで私はそういう「霊的な」ことが自分の身には起きないので自分は霊的ではないと思ってました。
多分、よくTVでやっているような霊能力とか霊現象的なことが霊的なことだと勘違いしていたのだと思います。
でも、聖書をよく見ると、霊の賜物の個所にはこう書いてあります。
『すなわち、ある人には御霊によって知恵の言葉が与えられ、ほかの人には、同じ御霊によって知識の言、 またほかの人には、同じ御霊によって信仰、またほかの人には、一つの御霊によっていやしの賜物、 またほかの人には力あるわざ、またほかの人には預言、またほかの人には霊を見わける力、またほかの人には種々の異言、またほかの人には異言を解く力が、与えられている。』(コリント人への第一の手紙12:8~10)
ここで賜物の種類がいくつか挙げられている のですが(これがすべてではありませんよ)、初めの方に挙がっているのが知恵の言葉、知識の言葉なんですね。その次に信仰。
知恵と言えばソロモンが有名ですが、ソロモンは1000回燔祭を捧げた後、神様から何が欲しいかを尋ねられ、民を治める知恵が欲しいと言って知恵を求めました。
神様はソロモンが富や栄華ではなく知恵を求めたことをとても喜ばれてソロモンに知恵を与えました。
この後、ソロモンはどうやって知恵の賜物をもらったことを確認できたのでしょうか?
何か『知恵』と書いたものが自分にボ~ンと投げかけられたのを見たとか、知恵という声が聞こえたとか、そういうことではありません。
実際に王として民を賢く治める様子を見て確認できたのです。それは霊現象ではなく、現実の世界での王としての業務を行いながらの出来事です。
知識の言葉についてもそうです。現実の世界で言葉を話す中で知識の言葉の賜物をもらっているのかが分かります。黙って祈ってるだけではわかりません。
また、信仰の賜物についてもそうです。信仰の賜物という言葉だけを聞くと霊現象的なものだという感じもしますが、実際は、どんなことがあっても絶対に揺れないことや、みことばを素直に受け入れて信じられる力などが信仰の賜物です。つまり、これも現実世界で体験として起こることです。
ですから、「霊の賜物」とは言いますが、実際は多くの賜物が現実の世界で熱心に行う中でもらえるものなのです。
人の話や自分の状況次第ですぐに信仰が揺れてしまう人は信仰の賜物を求めると良いかもしれませんね。実際、しょっちゅう信仰がアップダウンしていると疲れますからね。
結局、霊的なことも現実世界での行いや生活自体がとても重要だという事です。
そして、もらった賜物は感謝して使うことがふさわしいことです。使わずに放っておいたり、私利私欲のためだけに使ってしまったら取り上げられます。
私の事を言えば、今でも「霊現象」は自分の身の上に起きません(笑)。でも、自分の個性に応じた賜物を頂いていると思ってます。 もっと言うと、もらった賜物によって、より自分の個性が際立っているような気がしています。
ですから、自分は霊的ではないと思い込んでいる人は、ちょっと見方を変えてみてください。そうしたら実はいろんなものを頂いていることを確認できると思いますよ!