昨日説教中にふと感じたこと。(説教の内容とは関係ないのですが。。)
今まで、先生がサッカーをしたとか、修練会の様子とか、そういうのって歴史の一コマとして捉えていたんですね。
実際歴史の一コマなんだけど、ただそれを情報として受け取っていたんです。歴史の流れに遅れないように、今現在の天の流れについて行けるように、という感じで。ニュースを見る感覚ですかね。
でも急に『これが福音なんだ!』『これが御言葉なんだ!』という考えが浮かんできたんです。
聖書に福音書が四つありますよね。何が書かれているかと言うと、イエス様がどこで何をしてその時弟子や人々はこうだった、という内容です。つまりイエス様の言行録です。
そのイエス様の言行録を4人がそれぞれの視点で書いたわけです。だから同じ内容もありますし、ある福音書にはあるけどある福音書にはない内容もあります。同行していたところが違うのかもしれませんね。
また、読んだ後受ける感じも違います。やはり著作には著者たちの個性が入りますからね。だから見た人たちそれぞれの証の記録だとも言えます。
使徒行伝は使徒たちの活動記録。ペテロがこうしたとか、誰々が迫害されたとか、パウロがどこに行ってどういう人を伝道したとか。
これらのものはイエス様が生きていた当世はなかったものです。また、弟子たちが活動していた時代もなかったものです。イエス様が生きていた当世の聖書は私たちが言う「旧約聖書」のみ。これを「聖書」と言っていたわけです。そして聖書に書かれた言葉を『御言葉』と言っていました。
でも今はイエス様の言行録や弟子たちの活動記録が「新約聖書」となり、そこに書かれた言葉が『御言葉』と言われているわけです。
今も、これからもそうだなと。
勿論今までも先生の説教の内容や毎朝の箴言等は御言葉だし福音だと思ってましたよ。だけど様々な活動の様子は私の中では「ニュース」という扱いだったんです。でもこれもやっぱり福音であり御言葉なんだなと。
サッカーの様子や修練会の様子、そこで先生が何をしてどんな話をされたかなどはまさしく「福音書」と同じじゃないですか。
今まで説教中に映像を流すのは説教の内容を分かりやすくするためかなと思ってたんですが、勿論それもあると思うけど、それ以上に、それそのものが御言葉なんだ!と悟ったんです!
もっと拡大すると、各教会で活動している内容や聖殿購入の経緯も、記録しておいたら後世の人が聖書の使徒行伝のように『御言葉』として見るかもしれませんよ。
私も長くいる人なのに今更ながらこれを悟りました。ちょっと恥ずかしいやら、でも嬉しいやら。
悟ったら前半期に先生がサッカーしたり作業したりする様子を「見なさい」と言われて何時間も見ていた意味も分かるようになりました。当時は分からないから「早く終わらないかな~」なんて思ったりしたんですけどね。(笑)
同じ場面をニュースとしてみるのか、福音としてみるのか。ただ見させられてるだけか。見方によって価値が大きく変わります。
貴重な悟りを与えて下さった主に感謝します💛