今週は聖霊様についてたくさん教えていただいていますね。
聖霊の御働きというのは実際にたくさんあるので「これとこれ」みたいな感じで定義するのは難しいです。
でも人って定義したがるんですよね。多分その方が理解しやすいし安心するからだと思います。『こういう事が起これば聖霊の御働きだ』のように考えれば確かに理解しやすいですからね。
ただ、霊的なことは断定的には定義しずらいです。特に聖霊の御働きは「その人の救いになるように内助する」というのが基本ですから、具体的な働きかけは人によって違うわけです。
以前実際にあったことですが、よく「聖霊を受けると熱くなる」と言いますよね?それで聖霊集会で熱くならなかった人は「自分は聖霊を受けてない」と思い込むわけです。
聖霊を受けると熱くなる、のようによく言われるようなことは、実際多くの人に起こり得ることだからよく言われるわけですが、だからと言って全員とは限らないし、熱くならなければいけない、という事ではありません。
集会中ずっと冷静だったとしても、その集会で聞いた御言葉の一言でもやりたくなって実際にやり始めたならその人は聖霊を受けたのです。また、考え方が完全に変わった、というならそれも聖霊を受けたのです。
静かに心に入っていくタイプもいますからね。
敢えて聖書的に定義付けるとするなら聖書では聖霊の御働きについてこのように書いてあります。
『 そこで、あなたがたに言っておくが、神の霊によって語る者はだれも「イエスはのろわれよ」とは言わないし、また、聖霊によらなければ、だれも「イエスは主である」と言うことができない。 』(コリントⅠ12:3)
『 ただ、聖霊があなたがたにくだる時、あなたがたは力を受けて、エルサレム、ユダヤとサマリヤの全土、さらに地のはてまで、わたしの証人となるであろう」。 』(使徒行伝1:8)
まず、『聖霊によらなければ、誰も「イエスは主である」という事ができない』とあります。つまり、聖霊の御働きがあって初めてメシヤを悟ることができるという事です。メシヤを悟らせるというのは聖霊の最大の御働きと言っても過言ではありません。
そしてもう一つは、聖霊が下ったら力を受けて主の証人になる、つまりメシヤを証したくなる、という事です。
ですから、根本的には、メシヤを悟ること、そしてメシヤを証するようになること、このことが一番大きいという事です。
いくら熱くなって賛美に恵みを受けても、「あの時間は楽しかったけど。。でもね~。。現実問題はね~。。。」という感じだと聖霊を受けたとは言えません。
でも、パウロ先生のように、いきなり大迫害者が大伝道者に変わるというような劇的な変化はなくても、段階的に、最初は楽しいと感じるだけだったけど、何回か参加するうちに徐々に信じるようになったというのはありますよ。疑いが晴れたとか、偏見がなくなったとか。そこが引っ掛かっていては悟れないし証もできませんからね。
だから同じ集会でもその人の段階によって起こる変化は違います。
でも、何らかの変化が起きたのなら聖霊を受けたのです。
集会だけじゃなくて、日常生活や毎週の礼拝でも、救いの方向へ何らかの変化がもたらされたのなら聖霊を受けたという事です。
聖霊についてハッキリ学べること自体が感謝すべきことですが、せっかく学んだのだから、学んで頭でわかって終わるだけじゃなくて、実際に聖霊様と共に豊かで神霊な人生を送りたいですね。