今日は月曜日です!新しい一週間が始まりました!今週も共に頑張りましょうね!
昨日の説教の最後の方で先生が、みんな講義できるようになりなさい、とおっしゃいましたが、その時なんとなく使徒パウロの言葉が思い浮かびました。
『しかし、わたしは自分の行程を走り終え、主イエスから賜わった、神のめぐみの福音をあかしする任務を果し得さえしたら、このいのちは自分にとって、少しも惜しいとは思わない。』(使徒行伝20:24)
凄い言葉ですよね。使徒パウロは福音を伝えることに人生を捧げていたという事がこの聖句から分かります。
ここまで言えたら本当にカッコいいですね!
これだけ聞くと、自分はそこまではちょっと。。。と思う人もいるかもしれません。
でも、このパウロも最初からそうではなかったのです。
ローマ人への手紙にはこう書いてあります。
『わたしは福音を恥としない。それは、ユダヤ人をはじめ、ギリシヤ人にも、すべて信じる者に、救を得させる神の力である。』(ローマ1:16)
ここで「私は福音を恥としない」とあります。
私が先生から聞いた話はこうです。敢えて「恥としない」と言っているという事は、恥としていた時があったからだと。
つまり、あのパウロも最初は福音を伝えることを恥としていたという事です。
恐らく文字通り「恥だと思った」というより、伝えるのがためらわれたという事ではないかな?と個人的には思うんですけどね。
それか、迫害時代の事を思い起こしてその当時は「恥としていた」ということか。。。
実際、パウロが福音を伝える人となった経緯は劇的です。
パウロは元々ユダヤ教のパリサイ派に属しており、厳格なユダヤ教徒として、イエス様を信じる人を大迫害していたため、使徒たちから恐れられていた存在だったのです。
大迫害していた人が急にイエス様を述べ伝えるのですから、当然立場は悪くなります。
自己矛盾が生じるでしょうし、昔の仲間からは恨まれるし、逆に使徒たちからは疑われるし、躊躇しないわけがありません。
その心の葛藤というのは聖書にはほとんど書かれていないので憶測するしかありません。聖書にチラッと書かれている「恥としない」という決意表明からなんとなく察するくらいです。
でも、とにかく結果だけを見たら、パウロは大伝道者に生まれ変わりました。
だから、どんな人でも最初からうまくやっていたわけではなかったという事です。
大伝道者の使徒パウロでさえ、最初は「福音を恥としていた」という事実は、私たちにとって大いに参考になるのではないかと思います。
また、大迫害者だったとしても、聖霊の感動と本人の決心とでその後の人生は大きく変わることができるという事実も示しているといえます。
今、いろんな状態の人がいると思います。
福音を伝えたいけど技術的に自信がない人、講義案も作って練習もして伝える準備はバッチリしたけど心が決心できない人、状況的に難しい人等々。
でも、2000年前の使徒たちが最初から言葉の才能にも恵まれて雄弁で、すべて良い条件がそろって福音を伝えていたわけではありません。
みんな、どこかの時点で決心して福音を述べ伝え始めたのです。
決心が自分の運命を変えます。
迷っているのは自分だけではない、みんなそういう状況から復活したのだ、という事を忘れてはいけないですね。