世の中には「良い言葉」が溢れています。
本屋に行ってもそういう本が多いし、SNSにも良い言葉が溢れてます。
感謝すること、前向きに考えること、失敗を糧に変えること、などなど。そんな言葉には「イイね」がたくさん来ています。
また、ある人が自分の失敗談や悩みなどを投稿するとそれに対する慰めや励ましの言葉、解決方法などがいっぱい来ます。
本当に世の中良い人が多いんだな~と感心するくらいです。
だから実際、こういう言葉で元気が出たり、落ち込んでいたところから立ち上がったりできる人がたくさんいるのだと思います。
正直、「良い言葉」だけを求めているのならわざわざ教会に来る必要はないでしょう。
では、教会に来て聖書を学ぶ意味は何なのでしょうか?
人間には霊・魂・肉の三つが存在します。このうちの魂は心・精神・考えによって成り立っていると言っても良いです。
ですから、「良い言葉」は魂のためにはとても良いと思います。
でも、「良い言葉」だけでは神様の御心や計画、神様の心情は分かりません。
なぜ人間が作られたのか、何のためにどこに向かって生きるべきか、死んだ後どんな世界があるのか、こういう人類の根本的な問題は「良い言葉」では解決できません。
神様の御心を成すなら「御言葉」がないとできないのです。
神様と共に御心を成していく過程では嫌なこともあります。
正直、世の中で生きていたらこんな苦労はなかっただろうと言いたくなることもたくさんあります。
でも、それを通して神様の心情を悟ることが多いのです。悟れず誤解してしまう人も少なからずいますが、自分の体験を通して神様の心情を悟ると、聖書の言葉が本当にリアルに感じられるようになるのです!
これは私自身の体験談としてもはっきりと証できることです。自分が指導者になって一番良かったと思う点はこれです。苦労は多かったけれど、聖書がリアルに感じられ、読むと感情移入できるほどになったという事。
そうすると、さらに信仰が深くなり、神様への愛が増し加わります。
こうやって自分が成長し、自分の霊体が神様の姿かたちに近づいていくのです。
「良い人」になるなら「良い言葉」で十分。でも私達は神様の御心を成す人たちです。永遠に神様と共に生きる人たちです。
ハッキリわかってハッキリ証して自信と誇りを持って生きていきたいですね!