今日は、今週の説教の聖書の本文(使徒行伝12:21~23)に出てきたヘロデ王について考えてみたいと思います。
聖書は神様側からの事情が書かれています。
それを見ると、ヘロデが天に栄光を帰さなかったから主の使いが彼を打った、とあります。
神様側では天の使いが彼を打ったわけですが、世の側から見たら恐らく、偶然、たまたま、不運にも演説中に虫に噛まれて死んでしまった、という事になるでしょうね。
こういう事って今もあると思うんですよね。人間の側から見たら、なぜか不思議と、偶然そういうことになったということ。でも天の側から見たら明確な理由と働きかけがあったわけです。
旧約時代に起こった「バビロン捕囚」という出来事についても、歴史の本を見ると、弱小国だったイスラエルが強大な力を持ったバビロンに征服された、という風に書かれていると思います。
でも神様から見たら、歴代の王が偶像崇拝に走り、預言者を送っても悔い改めず、救うことができなくなった、という事だったんですよね。(歴代志下36:15~16)
何事もこの世で起こることの裏側には天の事情があるのです。
もしかしたら、ヘロデ王は何にも知らない異邦人なのにたった一回天に栄光を帰さなかったからといってそこまでしなくても。。。と思われる方もいるかもしれません。
このヘロデ王は、イエス様が生まれた時二歳以下の男の子を皆殺しにしたヘロデ大王の孫にあたる人で、イエス様と同世代くらいであり、イエス様が活動していたことを認識している世代です。
ということは、何も知らなかった、というわけではなく、イエス様についてある程度は知っていたと思われます。
その上で、使徒行伝12章の冒頭を読むと、彼はユダヤ人の歓心を買うために使徒を殺し、ペテロを投獄しているという事が分かります。
つまり、イエス様に出会うチャンスもなく本当に何も知らなかったというわけではなく、ユダヤ人の歓心を買いたいという肉的な理由で敢えて使徒を殺し、かつ人々に対して自分に栄光を帰するように仕向けていたのです。
彼が悔い改めるチャンスはいくらでもあったでしょう。でも、彼は悔い改めるどころか神様の人たちを迫害する側に回って罪を犯し続けたのでとうとう裁きが下された、という事です。
多分、ユダヤ人側から見たらキリスト教徒たちを一緒に迫害してくれる協力者だったと思うんですけどね。
人ってどの立場から見るかで完全に見方が変わります。
でも自分の運命は、神様側から見たらどうなのか、という事で決まります。どんなに肉的に地位があっても神様の決定は覆すことができません。
よくよく考えてみたら、人々が見てる前で虫に噛まれて死んでしまうなんて、一体どんな虫だったのか分かりませんが、かなり稀有なケースだし王の死に方としては情けない死に方ですよね。国民のために命を懸けて戦って死んだ、とかじゃないですからね。
私達の運命は神様が握っています。
だから私達は常に人の目じゃなくて神様の目を考えなければいけません。
神様がどういう事を喜び、どういう事を嫌がるのかは御言葉を学ぶことでわかります。
昨日の説教で、神様に栄光を帰することとは御言葉通りに生きることだ、と言いました。
ということは、ステージの上で歌って踊ることだけが栄光を帰することではなく、生き方そのもので神様に栄光を帰することができるという事です。
しっかり御言葉を学んで、神様の喜びになるような生き方をしていきたいですね!