今朝、先生から聖書の訳についての話がありましたが、日本語の聖書でも同じようなことがあるんですよ。
私達の教団では「口語訳」の聖書を使ってますが、ここ最近では日本でも「新共同訳」「聖書協会共同訳」などの新しい訳の聖書が出版されるようになりました。
日本語としての文章は新しい聖書の訳の方が柔らかいし、内容ごとに小見出しがついていたりして読みやすいんですね。新しい訳の聖書は読みやすくするための工夫が感じられるのです。
口語訳聖書は正直ちょっと固い日本語じゃないですか?
だから初心者にはそちらの聖書の方が口語訳よりは読みやすいんじゃないのかな?と思って店頭で手に取っていろいろ見てみたことがあるのです。
見てみた結果、私達としては使えないことが分かりました。
なぜかというと、比喩を勝手に解いて意訳されてしまっているのです。先生の仰っていた通りです。
例えば、出エジプト記23:28。ここで「くまばち」という単語が出てきて私たちは蜂の比喩について学びます。
しかし、新共同訳及び聖書協会共同訳の聖書では「くまばち」が「恐怖」という単語に変わってしまっているのです。
『 私は、あなたより先に恐怖を送り、ヒビ人、カナン人、ヘト人をあなたの前から追い払う。 』
となっています。
蜂の比喩で使う他の聖句も全て「くまばち」が「恐怖」という単語になっています。これだと蜂の比喩を解くことができませんし、かえって深い意味が分かりません。
また、今週の聖句でもある黙示録2章のエペソ教会に向けての話の最後の部分ですが、口語訳聖書では「耳のある者は、御霊が諸教会にいう事を聞くがよい。」となっています。
しかし新共同訳・聖書協会共同訳では「霊が諸教会に告げることを聞くが良い」になっています。
「御霊が」の部分が「霊が」になっているのです。
細かいことなんですけどね。でも、「御霊」ということなら聖霊が言う事、と受け取れますが、「霊」だと一体何の霊か特定されてないのである意味危険です。いろんな霊がいますからね。
この他にも細々といろいろ違いがあります。
先生の仰っていた通り、良かれと思ってやっているうちにちょっとズレてしまったという感じがします。日本人受けが良いように。
でも、こういう事って私たちの間にもあり得ることじゃないかと思うんですよね。
もっとわかりやすく、日本人に馴染みやすく、という点ばかりに焦点を当ててしまって本質からズレてしまうという事。
間違う時って、誰でも意図的に間違おうと思って間違うわけじゃないじゃないですか?この方が良いのでは?と思っているうちにズレてしまうという事がほとんどじゃないかと思うのです。
はじめの愛から離れるのもそういう原因があるような気がします。
もっとこうした方が良いのでは?。。。。と思ってやっているうちに疑問を持ち始め、信仰も愛も冷めてしまったり。。。
より良くすること、時代に合うようにすることは復活していくことであり必要なことです。
でも本質は見失わないようにしたいですね。