またゴーン氏ネタで申し訳ないのですが、昨日のゴーン氏会見を途中まで見て感じたこと。
なぜ途中までかと言うと再三日本の批判と自己主張・自己正当化をする姿を見ながら途中で見る価値を感じなくなってしまったため。
批判されてることについては考える余地はあると思いますが、だからと言って自分が疑われてる罪の疑惑を晴らすような内容じゃなかったように思ったんですね。
しかも真珠湾の話まで出ちゃって、「それ、関係ある?」と言いたくなりました。
ひたすら機関銃のようにしゃべっていて通訳が大変そうだな~なんて思ってしまったのですが、そういう姿を見ながら、以前先生が、口数が多い人・口ばかりの人を「葉っぱばかりで実がない木」に喩えておっしゃったことを思い出しました。
実際、実がない人は口数が多いですよね。
いろいろ塗りつぶさないといけないことがあるから言葉が多くなっちゃうのかな?
真理はシンプルで一言で終わるんですけどね。
例えば「白」は一言「白」と言えば済みます。
でもそれを「黒」とか「白とは言えない」などと主張したければ、どうして黒と言えるのか、どうして白とは言えないのかなど、人々に納得してもらえるようにあれこれ自論を展開しないといけません。
しかも、「密出国」という明確な罪を犯した後の話だったから、何を言っても言い訳にしか聞こえないように感じました。
それで改めて悟った事は、
- 言い訳や相手の批判は自分に罪のない状態でしないと説得力がない、という事。
- 関係ない話を混ぜるとむしろ信憑性が下がるという事。
- 口数が多いと空っぽに見える。(すみません。。。)
ちょっと辛辣で申し訳ないですが、率直に思ったことです。
それで、私達も神様の前でこういう事がないのか、点検してみないといけないな~と思いました。
客観的に他人事として見るからこういう事を思ったわけで、正直な話、今まで自分自身も保身に回って言い訳したことが一回もないという人はいないと思うんですよね。
そういう時、神様の目にはこういう感じで映っていたのかな~と思うとちょっと恥ずかしくなったんです。
人間的に考えても、やっぱり、潔く自分の非を認める人の方が言い訳をたくさん並べる人より信頼できるなとも思いました。
あともう一つ切実に感じたことがあったのですが、それも書くと長くなるので次回に回します。
次回予告編みたいになっちゃいましたが。(笑)
とにかく、世の中のためにも祈らないといけませんね。
私達は霊的に生きると言っても、肉体のあるうちは世の中という器の中で生きていますから。世の中が悪くなれば自分を取り巻く状況も当然悪くなります。
勿論、自分自身の霊的な成長のため、教会の宣教のためには祈らなくて良いという意味じゃありません。でも、大きな視野で世の中全体のために祈ることも大切だと実感している今日この頃です。
天の御心が地に成されますように。。。