今月に入ってから気温のアップダウンが激しくなりましたね。
雨だと涼しく、晴れると真夏日(最高気温30℃以上の日)に。。(^^;
今日も昨日より10℃高くなり、真夏日になるという予報です。
いよいよ本格的に熱中症に注意しないといけない季節になりましたね。
ここで注意しないといけないのは、コロナ対策として着用しているマスク。
マスクに熱がこもり熱中症の危険性が高まるのだそうです。
ですから、屋外で人との距離を確保できるときや、負荷のかかる作業をするときなどは適宜マスクを外して休憩を取ることも必要だということです。
日本人は時に真面目過ぎて「マスク着用」と一度インプットされてしまうと、いかなる時でも息苦しくてもマスクを着用してしまうという傾向があります。
自分だけ外してもいいのか?と罪悪感を感じてしまう人もいるのでは?
普通に考えたら、息苦しくなったらマスクを外すのが自然ですが、息苦しくても我慢してでも「外しても良い」と言われなければ不安でし続けてしまうんですよね。
わざわざ厚生労働省が熱中症対策として暑い日の屋外ではマスクを外すようにという注意喚起をしなければいけないというのは、日本人のこういう性質があるからだと思います。
こういう日本人の性質は良い面もあるけど悪い面もあります。
対策を徹底するという点では良いですが、状況に応じて臨機応変に対応するという点ではマイナスに働きます。
私達の間でも、一度「福音伝道だ!」と言ったらそれまでやっていたスポーツや文化活動は全く意味がないかのように扱われたり、「迫害だ!」と言ってそれまでやってきたことを全部やめてしまったり。。
言われるとそれだけをしてしまうのです。というか、それ以外の事はしてはいけないと考えてしまう。。。
そういう状況を見るたびに、中心をどこに置くかという事で、0か100かということではない事を認識しないといけないのではないかなと思ってました。
確かに、言われた通りにだけしていれば安心だし、何かあった時も「言われた通りにやっただけです」と言えるので自分に対する罪悪感も感じずに済みます。
けれど、命にかかわることまで言われないとできないようでは大人とは言えません。
誰かに良いと言ってもらわなければ不安、というのはある意味自立してない精神状態じゃないかと思うのです。
信仰生活の中でも本当は苦しいのに『やっていいか分からない』という理由で苦しい信仰生活のスタイルを続けてしまって霊魂の死に至ってしまう場合もあります。
何かを乗り越えるためや目標に到達するための努力や忍耐は必要ですが、そうではない場合、自ら方法を考えてやりやすくする、という知恵がないといけないと思うのです。
御言葉を守らなくていい、という意味ではありませんよ。守り方を自分なりに工夫すればいい、という意味です。
マスクもコロナ対策としては必須です。でも、マスクのせいで熱中症になっては本末転倒です。
だからマスクの付け方を工夫するわけです。感染のリスクは低く熱中症の危険性のある状況下では外す、と。
信仰生活も同じだと思います。
一人一人の状況は違います。先生が一人一人に、あなたの場合はこう、というような指導はできません。
だから自分が自ら神様に祈って考えるしかないのです。
自分自身が常に霊肉元気に活動するためにも、自分が自分の状況をきちんと把握し、積極的かつ自立した信仰生活を送っていくのが大人の信仰なんじゃないのかな?
【15日の天気】関東甲信で気温大幅上昇 熱中症対策に十分な注意を
https://news.yahoo.co.jp/articles/154b3e1598a4d321b5d0e3cd7cac6e5c478f2adf